2012年6月3日日曜日

ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番ハ短調


ラフマニノフとピアノ曲

ピアノ協奏曲第2番ハ短調op.18

切ないメロディが大人気のピアノ協奏曲

古今のピアノ協奏曲のなかでももっとも人気のある作品のひとつ。
新進作曲家だったラフマニノフは、1897年に発表した意欲作、
交響曲第1番が酷評されて自信を喪失、
ノイローゼ状態で作曲もできなくなってしまう。
周囲のすすめで著名な精神科医ニコライ・ダール博士を訪れ催眠療法を
受けたことで回復、ふたたび作曲にとりかかることができた。


そこで1901年に完成させたのがピアノ協奏曲第2番。
第1楽章は、荘重な鐘の響きのようなピアノの和音ではじまる。
続いて登場するピアノの分散和音にのせてクラリネットと弦楽器群が演奏する
うねるような第1主題と、高揚がしずまってピアノに現れるエレガントな第2主題。
第2楽章はラフマニノフならではのロマンティシズムが全編をおおいつくしている。
第3楽章は、カデンツァのあとに現れる弾むようなメロディと、
それが落ち着いたあとオーボエとヴィオラが奏でるのびやかな
メロディとが展開して華麗に盛り上がる。

ラフマニノフとピアノ曲


ラフマニノフとピアノ曲

ロマンティックで濃厚なピアノの世界を作り上げたロシアの作曲家

リストやショパンの系譜に連なる20世紀前半を代表する
ヴィルトゥオーソ・ピアニストとして活躍したラフマニノフ。
ヨーロッパとアメリカをまたにかけた演奏活動が多忙だったせいもあり、
創作に割く時間が限られてしまった。
残された作品はあまり多くはないが、
ピアノ曲を中心に充実した作曲活動を展開した。
西欧の洗練性とロシアの民族色とを融合させた
チャイコフスキーの正統な後継者というに
ふさわしいロマンティックで甘く切ないメロディが
なんといっても彼の音楽の魅力。


活動した時代を考えると保守的な作風だが、
エレガントな憂愁をたたえた作品は広く愛されている。
4曲あるピアノ協奏曲はいずれも名作だが、
特に第2番と第3番は演奏機会も非常に多いラフマニノフの代表作。
<パガニーニの主題による狂詩曲>は
パガニーニによる高名なメロディを変奏していく実質的な協奏曲。
ピアノ・ソロのための作品では、ピアノ・ソナタ第2番、前奏曲集、
練習曲集<音の絵>などがよく知られている。

ラヴェル 水の戯れ


ラヴェルとピアノ曲
水の戯れ
水の動きを生き生きと描写した絵画的な名曲

若きラヴェルの出世作となった作品で、
絵画的な描写力に優れ、流れ落ち、
飛び跳ねる水の諸相を生き生きと表現している。
同時代のライヴァルと目されていた17歳年長の
ドビュッシーにも相当の影響を与えたとされる革新的な傑作である。
この曲は師であったガブリエル・フォーレに捧げられている。


コンセルヴァトワールで教鞭を執っていたフォーレは、
当時在学していたラヴェルとは師弟関係にあり、
ラヴェルの音楽に大きな影響を与えた。
慎ましい性格の人物であったと伝えられるフォーレは、
ラヴェルが音楽院から正当な評価を与えられず、
「ローマ賞」という権威ある賞を受賞できなかったという事件が
社会問題化した際、「あの穏やかなフォーレ先生が……」と
周囲を驚かせるほどの猛抗議を音楽院のお歴々にぶつけたという。
ラヴェルは、長じてフランスを代表する作曲家となったあとも、
若き日に師から受けた恩義を終生忘れることなく、
後年、フォーレの名の綴りを音名に見立てた作品なども残している。

ラヴェルとピアノ曲


ラヴェルとピアノ曲

ピアノを使って多彩な音楽を作り出す魔術師

モーリス・ラヴェルは、パリ・コンセルヴァトワール在学中から、
斬新で個性的な作品を発表し、物議を醸しつつも、
早くからその存在を認められていた。
特にピアノ作品は、親友のピアニスト、
リカルド・ビニェスが積極的に彼の作品を
初演したこともあって、当時のパリ楽壇をおおいににぎわした。
自身の管弦楽作品のピアノ編曲(あるいはその逆)も多く、
全作品に占めるピアノの位置は大きい。
ラヴェルの作品個々には、彼の生い立ちや嗜好が
反映したような性格が見られる。


例をいくつか挙げるなら、
彼の母がスペイン系であったことに影響された
スペイン趣味(<道化師の朝の歌>)、技師であった父に影響され、
メカニカルなものへの興味から発した古典への回帰
(<ソナチナ><クープランの墓>)、怪奇趣味(<夜のガスパール>)、
戦争の影響(<クープランの墓>)、ジャズの影響(ピアノ協奏曲)などなど。
こうしたいろいろな曲に接していくにつれ、
ラヴェルがじつに多面的な人間であったことがうかがえる。

ドビュッシー 亜麻色の髪の乙女


ドビュッシーとピアノ曲
亜麻色の髪の乙女
ひとつひとつのおしゃれな和音を味わいたい一曲

<前奏曲集>全2巻24曲は、ドビュッシーのピアノ作品中の
頂点にある作品と言っても過言ではないであろう。
もともとショパンの<前奏曲集>op.28(全24曲)を
強く意識して書かれた曲集であるが、
自由闊達な音楽の運びと、凝りに凝った作曲技法の駆使によって、
まさに近代のピアノ音楽を代表する名作として認められるに至った。


すべての曲の終わりの部分に表題と
おぼしき言葉が記されているのも特徴で、
<野を渡る風><雪の上の足跡><月の光の降り注ぐテラス>
といった調子の詩的なタイトルは、
聴き手の想像力に訴えてくるものばかりである。
<亜麻色の髪の乙女>は、この<前奏曲集>第1巻の第8曲にあたり、
曲集のなかでは、おそらくもっとも有名な作品である。
19世紀フランスの詩人ルコント・ド・リールの同名の詩から
インスピレーションを得て書かれた曲で、夏の朝、
スコットランドの草原にたたずむ乙女の姿を
描いた透明感あふれる曲である。

ドビュッシーとピアノ曲


ドビュッシーとピアノ曲

パリの流行を取り入れた色彩豊かなピアノ曲を作曲

クロード・ドビュッシーは、
19世紀に隆盛を迎えたフランス音楽に
新しい局面をもたらした天才である。
彼の作品は、繊細な感覚から生み出される斬新な響きや、
微妙に揺れ動く音階を多用して柔らかに浮遊する
透明な旋律といった特徴を有している。
それらは、その時代までに体系付けられていた音楽理論の規範を
大きく踏み超えて、新たな時代への扉を開いたもので、以後、
多くの作曲家がドビュッシーの音楽から影響を受けた。


名門パリ・コンセルヴァトワール(国立高等音楽院)の学生であった頃から、
優秀なピアニストでもあったドビュッシーは、ヨーロッパ中世の音楽や、
当時パリで流行した東南アジアの音楽などからの影響のもと、
しゃれや響きに彩られた数多くのピアノ作品を残した。
<ベルガマスク組曲><前奏曲集><版画><映像><子供の領分>など、
幾多の名作に彼独特の作風を聴き取ることができる。

2012年6月2日土曜日

リストラ・カンパネッラ


リストとピアノ曲

ラ・カンパネッラ
圧倒的な迫力と華麗な超絶技巧が堪能できる一曲

天才ヴァイオリニスト、パガニーニの演奏を聴いて、
ピアノのパガニーニになることを決意したリストが、
その技巧をピアノに移し替えることを試みた作品。
1838~40年作曲(1840年出版)の
<パガニーニによる超絶技巧練習曲集>を1851年に
改訂し、同年<パガニーニ大練習曲集>として
出版された全6曲の曲集のなかで、
第3曲にあたるのが、この<ラ・カンパネッラ>。
リストといえばこの曲というくらいの人気作だ。


パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番の第3楽章<鐘のロンド>が原曲で、
イタリア語で「鐘」をさすタイトルのとおり、高音域で鐘の音が模される。
短い前奏に続き、右手に高音の装飾がつけられたテーマが現れる。
このテーマがつぎつぎと技巧的な装飾をまといながら変奏されていく。
しだいに凄みを増していき、最後は圧倒的な迫力のなか華麗に結ばれる。
曲集は当時やはりヴィルトゥオーソ・ピアニストとして活躍した
クララ・シューマンに献呈された。

リストとピアノ曲


リストとピアノ曲

19世紀最大のヴィルトゥオーソ・ピアニスト

リストの創作活動は、ピアニスト時代(~1847年)、
ワイマール宮廷楽長時代(~1860年)、
ローマに移り住んで以降の晩年(~1886年)という
大きく3つの時期に分けられるが、
ピアノ曲は生涯を通じて作曲されている。
ピアニスト時代には、19世紀最大のヴィルトゥオーソ(超絶技巧)
・ピアニストといわれたリストらしく、
<超絶技巧練習曲集>やオペラの編曲作品など、
スーパー・テクニックを披露するような作品が目立つ。


<巡礼の年第2年 イタリア>や<詩的で宗教的な調べ>なども
この時期に書きはじめられている。
ピアニストとしては一線を退いたワイマール時代は、
作曲活動に重点を置き、
過去の作品の大幅な改訂も手がけている。
<巡礼の年第1年 スイス>や<コンソレーション>、
ピアノ・ソナタといった内容の濃い代表作が誕生したのはこの時期。
そして晩年には孤高へと至る。
調の概念からも解き放たれ<巡礼の年 第3年><不吉な星><暗い雲>
<悲しみのゴンドラ>などの深遠な作品を残している。

シューマン クライスレリアーナ


シューマンとピアノ曲

クライスレリアーナ
揺れ動く感情が緻密に表現された逸品

第1曲冒頭の低音に現れる音型で各曲が
緊密に構築された巧みな構成と、
あふれる詩情とが見事に結びついたシューマンの最高傑作。
ドイツ・ロマン派の作家で音楽家でもあったE.T.A.ホフマンの短編集
「カロ風の幻想小品集」に収められた
「クライスレリアーナ」からタイトルがとられた。
この短編の主人公である楽長クライスラーの
エキセントリックなキャラクターがシューマン自身を投影しながら描かれる。


以下の全8曲からなる。
襲いかかる嵐のような第1曲<激しく動いて>、
思いやりにあふれた歌と快活なリズムが交叉する第2曲<心をこめて、速すぎずに>、
不気味なリズムと優雅な中間部の対比が鮮やかな第3曲<激しく駆り立てられて>、
心の平安を求めるかのような第4曲<きわめて遅く>、
とまどうような第5曲<非常に生き生きと>、
重々しく格調ある第6曲<きわめて遅く>、
最初の嵐がふたたび襲いくる第7曲<非常に速く>、
屈折したおかしみのある第8曲<速く、諧謔的に>。
ショパンに献呈された。

シューマンとピアノ曲


シューマンとピアノ曲

詩情あふれるピアノ曲を残したドイツの作曲家

ピアニストを目指して猛特訓に励みながら、
指の故障から演奏家をあきらめたシューマンだが、
それでもピアノはいちばん身近な楽器だった。
シューマンの創作活動の特徴としては、
歌曲の年(1840年)、交響曲の年(41年)、
室内楽の年(42年)などのように、
特定のジャンルに集中的に取り組んだことが挙げられるが、
歌曲の年以前にはもっぱらピアノ曲が作曲されている。


文学的な内容をもった作品が多いことも特色で、
シューマンのペンネームであり、自身の二面性の投影である
フロレスタンとオイゼビウスという架空の人格が
いくつかの作品に密接に関わっている。
<子供の情景><クライスレリアーナ>以外の代表作としては、
巧妙なしかけをほどこささた最初の傑作<謝肉祭>、
画期的な意欲作<交響的練習曲>、詩情あふれる<森の情景>や、
<アベッグ変奏曲><蝶々><ダヴィッド同盟舞曲集>
<幻想小曲集><幻想曲><アラベスク><フモレスク>、
3曲のソナタなどが挙げられる。
ピアノ協奏曲もファンタジー飛翔する名作。

ショパン 革命


ショパンとピアノ曲
革命
激情に駆られるショパンの内面を描いた傑作

ショパンの練習曲(エチュード)は、
op.10の12曲、op.25の12曲、
<3つの新しい練習曲>の全部で27曲ある。
op.10はワルシャワ時代から書きはじめられ、
パリに到着した後、1833年に出版された。
知り合ってほどないリストに献呈され、
リストもこの曲をとても気に入って愛奏したという。
<革命>はそのop.10の12曲目にあたる。


ワルシャワを旅立ったショパンは、
パリへと向かう途中のシュトゥットガルトで、
愛する故国の革命が失敗に終わり、
ワルシャワがロシアに占領されたことを知る。
故国の窮状と友人・家族たちの困難を案じて
「どうして自分はひとりのロシア人も殺せないのか」と書き綴った。
そんななか作曲されたのが(革命のエチュード)。
痛烈な和音の一撃とともに開始早々音の奔流に飲み込まれる。
吹き荒れる嵐はやがて静まるかと思うと、最後に強烈な痛打が待っている。
繊細で優美なショパンとは別の激情に駆られる一面を見る思いがする。

ショパン 雨だれ


ショパンとピアノ曲
雨だれ
清らかなメロディが印象的なピアノの名品

1838年秋、ショパンはサンドとともに
地中海に浮かぶマヨルカ島へ渡る。
パリでのゴシップを避けるためと病弱な
ショパンの療養を兼ねた旅だった。
滞在中、古い修道院で暮らしていたが、
<24の全奏曲>はここで完成された。
尊敬するJ.S.バッハの<平均律クラヴィーア曲集>
にならない24のすべての調をもちいて全曲が構成され、
配列も考え抜かれている。
曲の長さも雰囲気もさまざまなのに不思議な調和があり、
24曲全体でひとつの作品として見事なまとまりがある。


この<雨だれ>は第15番にあたり、
単独でも取り上げられる有名な作品。
ほかの曲は30秒から3分ほどの長さのところ、
<雨だれ>だけは5~6分かかり、
全曲中でもポイントとなる。
ある嵐の夜、夜半過ぎにサンドが修道院に戻るとそこでは
ショパンがひとりピアノを弾き続けていた。
その曲が<雨だれ>だったという
真偽は定かでないエピソードがある。
歌心にあふれた清らかなメロディにはじまり、
重苦しい中間部を経て、最初のメロディが戻る。

ショパン ピアノ・ソナタ第2番変ロ短調<葬送>


ショパンとピアノ曲
ピアノ・ソナタ第2番変ロ短調op.35<葬送>

陰鬱で悲劇的な<葬送行進曲>はあまりにも有名

ショパンの残した3つのピアノ・ソナタのうち、
第1番は習作とされ演奏の機会はあまりない。
残る第2番<葬送>と第3番は質量ともにコンサートの
メイン・プログラムにふさわしい傑作。
この第2番は、ジョルジュ・サンドと交際がはじまって
最初のノアン滞在中の1839年に完成された。


第3楽章の<葬送行進曲>のみ
1837年に独立した曲として作曲されている。
重苦しさのなかはじまる第1楽章はソナタ形式。
せわしなくどこか不安な感じの第1主題と
ゆったりと穏やかな第2主題が対照的。
スケルツォの第2楽章は、威圧的な調子で進む。
優しさのにじむ中間部でつかのまの安らぎを得るが、
ふたたび切迫感にとらわれる。
第3楽章は有名な<葬送行進曲>。
重々しい左手の低音とともに葬列は進む。
ふと故人を振り返るような中間部をはさんで、
ふたたび葬列は歩みはじめる。
わずか1分半ほどの短い終楽章は急速な3連符の動きだけで
構成された不思議な楽章。

ショパンとピアノ曲


ショパンとピアノ曲

ピアノにすべてを注ぎ込んだ繊細な作曲家

ピアノの詩人とも呼ばれるショパンの残した作品は、
いくつかの室内楽曲と歌曲のほかはすべてがピアノ曲
(オーケストラをともなった作品を含む)。
作品番号は74までと、39年という短い生涯を考えても
けっして多いとはいえない数だが、そのいずれもがポーランドの
民族色とパリの洗練をあわせもち、
独特の優美さと繊細さをたたえた名作で、
ほとんどが現在でも演奏され続けている。
ショパンの創作期間は通常以下の3期に分けられる。


古典的な様式と民族的要素が結びついて
ショパン独自のスタイルが形作られた初期(~1831年、ワルシャワ時代)には、
2曲のピアノ協奏曲などが書かれている。
中期(1831~40年頃)には作曲技術の習熟とともに表現の幅も広がる。
ソナタ第2番<葬送>、<24の前奏曲>などがこの時期の作品。
後期(1841年以降)になると構築性と様式感を消化したうえに
彼ならではのポエジーが加わって作品はいちだんと深みを増す。
ソナタ第3番、<幻想ポロネーズ><舟歌>などの傑作群が生まれた。

ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第23番ヘ短調


ベートーヴェンとピアノ曲

ピアノ・ソナタ第23番ヘ短調op.57<熱情>
ピアノの可能性を拡大させた情熱的なピアノ・ソナタ

ウィーンで活動をはじめて10年ほどが過ぎ、
ベートーヴェンの名はヨーロッパ中に知れ渡っていた。
この曲を作曲する直前には、フランスのエラール社という
ピアノ・メーカーから、最新型のピアノを贈られる。
それは非常に大型で重い楽器であったが、
それまでのピアノに比べて音域が広かったとされる。


それゆえ、この曲を書く少し前から彼もピアノ作品で
使われる音域はいちだんと広くなった。
ベートーヴェンが新しい楽器の可能性を限界まで追求して作品に
反映させていった好例のひとつであろう。
<熱情>という表題はこの曲の第1楽章、
第3楽章に聴かれる情熱の嵐が吹きすさぶような曲調から、
楽譜の出版社が出版の際に付けたものである。
暗く静かに地の底からわき上がるように開始される第1楽章は、
起伏の豊かな音楽が情熱的に演奏され、
ゆったりと穏やかな第2楽章を経て、
激しい和音の強打で開始される第3楽章は
めまぐるしい旋律の動きが奔流のように荒れ狂う。

ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第8番ハ長調


ベートーヴェンとピアノ曲

ピアノ・ソナタ第8番ハ長調op.13<悲愴>
ベートーヴェンの悲愴感が込められたドラマティックな名曲

ベートーヴェンが故郷のボンから大都会ウィーンに
出てきて間もない頃の作品で、彼のピアノ作品としても
比較的初期のものであるが、鍵盤の上から下までフルに
使った旋律の大胆な動きや、突然の音量変化など、
ベートーヴェン特有の振幅の大きな表現がすでに確立している。


ベートーヴェンがみずから表題を付けた
ピアノ・ソナタはたった2曲しかなく、
この<悲愴>がそのひとつであるが、
曲の内容を非常に簡潔なかたちで聴き手に示唆している。
曲は、速い-ゆっくり-速いの3つの楽章からなる。
第1楽章はソナタ形式だが、荘重で訴えかけるような序奏が
付けられているのが大きな特徴。
序奏後に現れる旋律は、急速に迫り来る悲愴感を描写していて、
不安をかき立てる。
感傷と優しさに満ちた第2楽章を経て、
第3楽章では動きのある調べが京切な雰囲気をかもし出し、
激しくなだれ落ちるように曲を閉じる。

ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番変ホ長調


ベートーヴェンとピアノ曲

ピアノ協奏曲第5番変ホ長調op.73<皇帝>
華麗で気高く、自身に満ちた傑作ピアノ協奏曲

ベートーヴェンが書いたピアノ協奏曲(第1番~第5番)は、
どれも演奏される機会が多いが、そのなかでももっとも
親しまれている作品であるといえよう。
最大の魅力は、なんといってもその華麗で勇壮な曲調にある。
颯爽たる推進力を感じさせる音楽は、
まさにベートーヴェンの真骨頂、
傑作<英雄>交響曲をも連想させる格好良さである。
<皇帝>という愛称は、こうした雄々しい曲調が
「皇帝」的な堂々として気高い雰囲気をもっていることから
付けられたという解釈が一般的である。


全オーケストラが鳴らすひとつの和音にのって、
ピアノ独奏が華やかに駆け上がり駆け降りるという
たいへん印象的な冒頭にはじまる第1楽章、夢見るような弦楽器の
旋律に導かれてピアノが祈りを込めるような美しいメロディを歌う第2楽章、
その静寂を破るように激しいピアノ・ソロからはじまり、
オーケストラの質実でたくましい音楽を導き出す第3楽章と、
いずれの楽章も独奏とオーケストラが一体となった、完成度高い傑作である。

2012年6月1日金曜日

ベートーヴェンとピアノ曲


ベートーヴェンとピアノ曲

ロマン派の扉を開く革新的なピアノ曲を作曲

ドイルの宮廷音楽家の家系に生まれ育ったベートーヴェンは、
厳格な父の音楽教育を受けて、幼少の頃からことにピアノの演奏には
非凡な才能をみせ、7歳で公開の演奏会を開いたと伝えられている。
20代前半に、当時の音楽文化の中心地ウィーン上京、
数年後に自作のピアノ協奏曲第2番を弾いてこの地でのデビューをとげ、
ピアニストとして、また作曲家として大成功を収めた。


ベートーヴェンの時代、ピアノという楽器は非常な進歩をとげる。
楽器の大きさが大きくなるにつれて、音域が広くなり、
また、ハンマーで打たれる弦が太く丈夫なものになるにつれ、張力が増し、
より大きな音量を出すことが可能になっていく。
こうした新しい楽器の可能性を限界まで追及した実験精神にあふれた曲作りと、
激しい打鍵から繰り出す超絶的な演奏とで、
ベートーヴェンは一躍時代の寵児となったのである。
その作品群は、「古典派」の完成を高らかに告げ、
「ロマン派」の時代へと扉を開く革命的なものばかりである。

モーツァルト 2台のピアノのためのソナタニ長調


モーツァルトとピアノ曲

2台のピアノのためのソナタニ長調K.448
のだめ&千秋ペアも演奏した2台ピアノの定番曲

モーツァルトが書いたピアノ・ソナタと呼ばれる曲種のなかには、
奏者2人が弾く、つまり4手のための作品が何曲かある。
そのうち、1台のピアノを2人で弾く、
いわゆる「連弾」のためのソナタは4曲書かれているが、
2台のピアノを使うピアノ・ソナタはこの1曲のみである。
この曲はモーツァルトがウィーンに上京し、
独自の音楽活動をはじめて間もない1781年に、
弟子のヨゼファ・バルバラ・アウエルンハンマー嬢と演奏するために
作曲した作品とされている。


モーツァルトはこの弟子に数曲のヴァイオリン伴奏付き
ピアノ・ソナタも献呈しており、そのピアノのウデは評価していた。
曲は速い-ゆっくり-速いの3つの楽章からなっており、
ピアノ2台というメリットをいかして、
豊かな響きで堂々とした音楽が構築されている第1楽章は、
2006年に話題になったテレビドラマ「のだめカンタービレ」で主人公2人が
はじめて合奏した曲なので覚えておられる方も多いだろう。
2台のピアノが交互にメロディを囁き交わすような第2楽章も美しい。

モーツァルト ピアノ・ソナタ11番イ長調


モーツァルトとピアノ曲

ピアノ・ソナタ11番イ長調K.331<トルコ行進曲付き>
トルコ風の香りをたたえた大人気のピアノ曲

終楽章の<トルコ行進曲>はあまりに有名で、そのおかげもあって、
モーツァルトのピアノ・ソナタのなかでいちばんの人気を博している。
オスマン・トルコ軍がウィーンを包囲したのが1683年。
この曲はその100年ほど後に作られた曲である。


当時、ウィーンではトルコ風の音楽が人気を博しており、
モーツァルトと同時代に活躍したベートーヴェンも<トルコ行進曲>を書いたり、
有名な<第九>交響曲のなかにトルコ風の打楽器を登場させたりしているし、
モーツァルト自身も、この曲のほかに、俗に<トルコ風>という愛称で呼ばれる
ヴァイオリン協奏曲第5番や、トルコ・ムード一色の<後宮からの誘拐>
というオペラなどを書いている。
曲は3つの楽章からなる。
第1楽章は、はじめに登場した旋律が、
姿かたちを変えながら何度も繰り返される
「変奏曲」という形式になっている。
第2楽章は「メヌエット」という3拍子の優しげな舞曲である。

モーツァルト ピアノ協奏曲第21番ハ長調


モーツァルトとピアノ曲

ピアノ協奏曲第21番ハ長調K.467
端正で気品にあふれたモーツァルト絶頂期のピアノ協奏曲

モーツァルトの数々の傑作のなかでも、
生涯の最後10年を過ごしたウィーンで
作曲された曲は、また格別の魅力を有する名曲ぞろいである。
そのウィーン時代のなかでも、
このピアノ協奏曲第21番が作曲された1785年は、
モーツァルトが売れっ子作曲家としての絶頂期にあった年であり、
作品内容もみな充実したものばかりである。


この曲は、モーツァルトが主催した演奏会でみずから
独奏者として演奏するために書いた協奏曲であるが、
同じ時期に同じ目的で書かれた劇的で激情的な第20番とは
まったく正反対の性格をもっていて、端正な気品にあふれた名曲である。
モーツァルトの時代の協奏曲に一般的であった、
速い-ゆっくり-速いという3つの楽章から構成されており、
堂々としたサウンドのオーケストラを従えたソナタ形式の第1楽章、
しっかりとした美しさをたたえた第2楽章、
軽妙な足取りでピアノが妙技を聴かせる第3楽章からなっている。

モーツァルトとピアノ曲


モーツァルトとピアノ曲

ピアノとともに生涯を歩んだ天才作曲家

モーツァルトは、幼い頃より天才的なピアニストとして
「神童」の名をほしいままにし、ヨーロッパ各地を演奏旅行して好評を博した。
ヴァイオリンの腕前も相当なものだったというモーツァルトだが、
本人は「ヴァイオリンはあまり好きではありません」と書簡に書き残しており、
やはりいちばん意のままになる楽器はピアノだったと思われる。


作曲のほうは、最初のピアノ曲を、
なんと5歳になったばかりの頃に書いたとされている。
それから亡くなる年まで文字通り一生の間、
ピアノのための作品を書き続け、27曲の協奏曲、
17曲のピアノ・ソナタをはじめとする膨大な数の傑作を残した。
なかでもピアノ協奏曲には、モーツァルトが
ウィーンで生活資金を集めるために頻繁に開催した
「予約演奏会」のプログラムとして書かれた作品も多く、
そうした作品は、もちろん作曲者自身が独奏者となることを
想定して書かれたため、
モーツァルト作も「カデンツァ」が残っている。

ピアノの名曲を聴こう ピアノ協奏曲イ短調


ピアノの名曲を聴こう
グリーグ
ピアノ協奏曲イ短調op.16第1楽章
北欧の清々しさに満ちたグリーグの代表作

エドヴァルド・グリーグは、ノルウェーを代表する作曲家で、
故国では紙幣になるほどの国民的人気を博している。
若き日、ライプツィヒ音楽院に学び、
ドイツ系作曲家の影響を強く受けたが、
帰国後は、ドイツの影響から脱却して、
同郷の作曲家らとノルウェー音楽の推進に努めた。
そのため民謡をベースにした作品、
民族楽器を模した効果を取り入れた作品なども多い。
北欧独特の澄んだ抒情をたたえた美しい音楽は
世界中の聴衆から愛されている。


このピアノ協奏曲はグリーグが25歳の年に書いた出世作であり、
古今のピアノ協奏曲のなかで、もっとも有名な曲の
ひとつと言っても過言ではなかろう。
特徴的なのはなんと言っても第1楽章の冒頭で、
大波のように立ち上がるティンパニの連打に導かれ、
波頭が一気に砕けるように劇的にピアノが登場する。
この激しい序奏のあとに、ノルウェーの氷河を
思わせる寂寞とした音楽、切々と胸に訴えるような旋律が次々と現れ、
聴き手はグリーグの世界に引き込まれていくのである。

ピアノの名曲を聴こう ピアノ協奏曲第1番ホ短調


ピアノの名曲を聴こう
ショパン
ピアノ協奏曲第1番ホ短調op.11第2楽章
ナイーヴな内面を表すピアノ協奏曲の傑作

ショパンの2曲のピアノ協奏曲は、第1番ホ短調が1830年、
第2番へ短調が1829年に作曲されているのだが、
出版順の関係で作曲年と番号が逆になっている。
この第1番は、勇壮で華麗な第1楽章、抒情的な第2楽章、
軽快で技巧的な第3楽章の全3楽章からなり、
全曲で40分ほどもかかる堂々たる大曲。


第1楽章が全体の半分を占めている。
「ロマンティックで穏やかで、少し憂鬱な気分。
美しく明るい春の月夜に、
なつかしい思い出の数々を呼びおこさせる」と
親友への手紙に記した第2楽章は、
ロマンス(ロマンツェ)と題されたゆったりとした楽章。
音を弱められた弦楽器に導かれて、
ささやきかけるようなメロディをピアノが静かに歌い始める。
やわらかい弦楽器の伴奏にそっと寄り添いながらたっぷりと歌われていく
甘いピアノの調べは、恋のときめきのように胸を熱くする。
やがてオーケストラが静まり、オルゴールのような短いソロをはさみ、
すっと空中に溶け込むように終わる。

ピアノの名曲を聴こう 愛のあいさつ


ピアノの名曲を聴こう
エルガー
愛のあいさつ
抒情的で美しいメロディが世界中で愛される名曲

エピソード
サーの称号をもつ国民的作曲家エルガーも、不遇の時代は意味に長く、
彼がようやく認められたのは、40歳を過ぎてからのことであった。
<愛のあいさつ>は成功前の作品であったため、
出版社は二束三文でこの世界的名曲の版権を買い取ったと伝えられている。


エドワード・エルガーは19世紀末から20世紀初頭のイギリスの作曲家である。
イギリスは、17世紀のヘンリー・パーセルという大作曲家が活躍した時代以降、
音楽的には低迷期が続いたが、エルガーはそこに登場して数々の名曲を作り、
20世紀イギリス音楽復興の時代を開いた作曲家として評価されている。
彼の代表作のひとつである行進曲<威風堂々>第1番の中間部のメロディは
「イギリス第二の国歌」として国民から愛されている。
この<愛のあいさつ>は、彼が結婚する前に、
のちのエルガー夫人となる女性のために
書いた作品で、この曲を贈った1ヶ月後にふたりは婚約した。
ヴァイオリンやオーケストラへの編曲版でも盛んに演奏され、
抒情的で美しいメロディが世界中で愛されている名曲である。

ピアノの名曲を聴こう トロイメライ

ピアノの名曲を聴こう
シューマン
トロイメライ
比類ない繊細さと美しさをたたえた名曲

わずか2分半ほどのあいだに、ノスタルジックな思い出が
つぎつぎと浮かびくる不思議な豊かさをもった小品。
1838年、シューマン27歳の春に作曲され、
翌年出版された小品集<子供の情景>の第7曲にあたる。
タイトルの<トロイメライ>はドイツ語で夢を見ること、
夢想することを意味している。


シューマンのピアノ曲のなかでももっともよく知られた作品で
単独でもひんぱんに取り上げられている。
穏やかで優しい夢をみるようなゆったりした
メロディが少しずつ変化をみせながら
8回繰り返されていくという単純な構成ながら、
そのなかにはちょっと触れただけこわれてしまいそうな
繊細さが秘められ、その美しさは比類がない。
技術的には子供でも弾けるくらいに書かれているが、
シンプルなだけに解釈面の難しさがあるだろう。
シューマン自身、これは子供のための作品ではなく、
年をとった人の回想で、大人のためのものなのです、と言っている。

ピアノの名曲を聴こう ピアノ・ソナタ第14番嬰ハ短調

ピアノの名曲を聴こう
ベートーヴェン
ピアノ・ソナタ第14番嬰ハ短調op.27-2<月光>第1楽章
しみじみとした味わいの革命的なピアノ・ソナタ

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの名前は
クラシック音楽の代名詞と言っていいほど有名なものだろう。
ドイツ・オーストリアを代表する大作曲家としてさまざまな
ジャンルに多くの傑作を残したが、ピアノに関しては32曲のソナタと、
5曲の協奏曲のほか、変奏曲や、小品なども数多く書いている。


特に32曲のソナタはピアノ音楽の「新約聖書」にもたとえられ、
ピアニストのレパートリーとしてはもっとも重要なものに数えられるだろう。
<月光>という表題で呼ばれることの多い、
このソナタ第14番は、作曲者31歳のときの、全3楽章からなる作品。
この曲が作曲された当時、ピアノ・ソナタの第1楽章には
速いテンポを用いるのが普通とされていたが、
ベートーヴェンはゆっくりした静かな伴奏にのせた、
息の長い幻想的なメロディをソナタ形式にのせて奏でている。
「古典派」の殻を破るさまざまな「革命」をやってのけた
この作曲者らしい、ロマンティックな味わいに満ちた楽章である。

2012年5月31日木曜日

ピアノの名曲を聴こう ポロネーズ変イ長調<英雄>

ピアノの名曲を聴こう
ショパン
ポロネーズ変イ長調op.53<英雄>
勇壮で華々しい魅力をたたえたショパンの代表作
7歳で作曲したポロネーゼがショパンの最初の作品だった。
幼い時から書き続けたこの形式のひとつの頂点を極めたのがこの曲。
つぎつぎと傑作群を生み出していた1842~43年に作曲された。


<英雄>はショパンが付けたタイトルではないが、
その名にふさわしい勇壮で大規模な作品。
3つの部分からなる。
何かが始まる期待感にあふれた序奏に続き、
高らかな勝利の凱歌が華々しく鳴りわたる第1部。
太鼓の合図のような7つの和音で第2部に入り、
左手のオクターヴの刻みにのせて息の長いメロディが歌われていく。
磨き上げた甲冑に身を固めた騎士たちの一団が
行進していくさまが目に浮かぶよう。
流れるような優美さをみせたのち、勝利の凱歌が戻り第3部に。
そのまま圧倒的な興奮とともに曲は結ばれる。

ピアノの名曲を聴こう 愛の夢

ピアノの名曲を聴こう
リスト
愛の夢
心を捉えて離さないアイドル・リスクの名曲

リスクが自作の歌曲をピアノ用の編曲した3つのノクターン<愛の夢>
の第3番にあたり、<ラ・カンパネッラ>とならび、
リストのピアノ曲中もっとも有名な作品。
通常<愛の夢>といえば、この第3番のことをさす。
1850年に編曲され、同年連作集として出版された。
ドイツ・ロマン派の詩人フェルディナント・フライリヒラートの
詩に作曲した<おお愛しうる限り愛せ>が原曲。


ショパンのノクターンを思わせるシンプルながら印象的な作品。
ハーブのような分散和音にのせて、
たっぷりとした甘いメロディが前奏もなく歌いだされる。
最初は中音域でろうろうと歌われるこのメロディはカデンツァをはさみ、
高音域に移る。情熱を帯びながら高揚していき華麗さを増したのち、
ふたたびカデンツァに。
最初のメロディが戻り、優しくうなずきかけるような和音を
間の手にそっと歌われる。
最後は余韻を残して静かに結ばれる。

ピアノの名曲を聴こう ワルツ変ニ長調<子犬>

ピアノの名曲を聴こう
ショパン
ワルツ変ニ長調op.64-1<子犬>
愛らしい子犬を思わせる人気曲

全21曲あるショパンのワルツのなかでもっともよく知られた作品。
生前に発表された最後のワルツ集である、
1847年出版の<3つのワルツ>
op.64の第1曲目にあたる。
1846~47年に作曲され、友人で支援者の
デルフィナ・ポトツカ伯爵夫人に献呈された。
ショパンの命名ではないが、タイトルの由来は
ショパンの愛人ジョルジュ・サンドが
ノアンの家で飼っていた小犬のエピソード。
自分のしっぽを追いかけるぐるぐるとまわる
小犬の様子を音で描いてほしいという
サンドのリクエストに応えて作曲されたといわれる。
急速なテンポでころころと転がるような音の動きに、
たわむれる小犬が目に浮かぶ。


ここが聴きどころ
愛らしい感じのある曲
冒頭の部分では、狭い音程のなかを半音階的に
めぐる細かな音に快活な動きが感じられ、
中間部ではちょっと音程が離れて動きが少し変わります。
全体としてはそれほど大きな変化はない曲ですが、
わずかな違いで動きの多彩さが感じられる曲です。
またワルツのリズムは軽やかで、ペダルの指示は細かくされており、
ささやかな和声の違いを際立たせながら、軽快さを演出しています。

ピアノの名曲を聴こう ノクターン変ホ長調

ピアノの名曲を聴こう

ショパン
ノクターン変ホ長調op.9-2
繊細で甘いメロディにうっとり

ノクターンは、マズルカやワルツとともにショパンの生涯にわたって
折にふれ作曲し続けられ、作風の変化・深化がよくわかるジャンル。
全21曲が残されており、そのうち18曲は生前に出版されている。
op.9は3曲からなり、ショパンのノクターンとしては
いちばん早い1832年に出版された。
このop.9-2は、ショパンのノクターンのなかでもっとも
よく知られた1曲で、ノクターン第2番とも呼ばれる。


左手の伴奏音型にのって、ほのかな憧れがこめられた
甘く夢見るようなメロディがしっとりと歌い出される。
このメロディは、毎回違った装飾を加えられながら
繰り返し歌われていく。
やがて左手の伴奏が止まり、短いカデンツァを経たのち、
夢のなかへ沈んでいくように静かに結ばれる。
センティメンタル一辺倒に流れてしまうと、
少し安っぽくなってしまうため、
演奏者には磨き抜いたタッチでしっかりと抑制を
効かせながら弾くことが求められる、
一筋縄ではいかない難しい作品でもある。

ピアノの名曲を聴こう 紡ぎ歌

ピアノの名曲を聴こう

メンデルスゾーン
紡ぎ歌
軽快に舞うメロディが魅力の愛らしい小品

フェリックス・メンデルスゾーンは、ドイツ・ロマン派を
代表する作曲家のひとりである。
裕福な家庭に生まれて、早くから音楽の才能をあらわし、
10代後半にはすでに
弦楽八重奏曲や<真夏の夜の夢>などの名作が高い評価を得ていた。
38歳という若さで亡くなったが、彼がその生涯にわたって、
折にふれ書き続けた全8巻
48曲からなる。<無言歌集>は、
愛らしく美しい小曲が並んだ魅力的な作品集である。


この<紡ぎ歌>は、その<無言歌集>のうち、
メンデルスゾーンが30代前半に作曲した
第6巻の第4曲にあたる作品で、曲集のなかでは、
第5巻終曲の<春の歌>などと並んで
もっとも親しまれている曲であろう。
冒頭の、回転する紡ぎ車を模したような印象的な音型は、
やがて伴奏となり、その上を飛び跳ねるようなメロディが軽快に舞う。
歌を口ずさみながら糸紡ぎの仕事をしている
乙女の姿が想像できる楽しい曲である。

ピアノの名曲を聴こう エジプトの女

ピアノの名曲を聴こう

ラモー
エジプトの女
装飾音をふんだんにまとったエキゾティックな小品

ジャン=フィリップ・ラモーは18世紀フランスを代表する作曲家。
メヌエット、サラバンドなどの舞曲を並べて構成するのが
当時の組曲の伝統であったが、ラモーが教会オルガニストとして
過ごした前半生に書いた3つのクラヴサン組曲集は、
そうしたこの時代の代表的な洋式に従いつつも、
表題の付いた曲を多く含む、比較的自由なスタイルで編まれている。


のちにオペラの世界で名をなすことになるラモーらしい、
ドラマチィックで色彩感豊かな世界がそこにある。
この<エジプトの女>は、ラモーが出版した3作めの組曲集
「新クラヴサン曲集」の最後を飾る曲である。
装飾音(音を飾るために、音を揺らしたり付け加えたりすること)を
ふんだんにまとった華やかな早い音型が右手と左手に繰り返し現れ、
エジプトの女たちのにぎやかなおしゃべりの様子が見えてくるかのようである。

ピアノの名曲を聴こう 月の光

ピアノの名曲を聴こう

ドビュッシー
月の光
ほのかな月の光を描いた詩情あふれる名作
<月の光>は4曲からなる<ベルガマスク組曲>
の第3曲にあたる曲。
ドビュッシーのピアノ作品中、もっとも有名な1曲で、
ほのかな月の光のもとでの優しさ穏やかな時の流れが感じられる、
詩的な曲調のピアノの名作である。
<月の光>というタイトル、そして「ベルガマスク」という組曲のタイトル、
それらはともに同時代フランスの詩人ボール・ヴェルレーヌの
詩からの引用であるとされている。


ヴェルレーヌの「月の光」というと、
ドビュッシーより17歳年長の先輩作曲家
ガブリエル・フォーレの歌曲も有名であるが、
ドビュッシーもこの詩人の作品は
たいへんに好み、その詩にももとづく歌曲も数多く作曲している。
暗い部屋に月の光がさっと差し込むような美しい旋律に続き、
孤独な夜の切ない感情が
徐々に高まっていき、一度静まってから、
月光のきらきらと輝くような細かい音型の
伴奏にのって奏されるロマンチィックな旋律のあと、
冒頭の旋律が回想されて曲を閉じる

ピアノの名曲を聴こう

ピアノの名曲を聴こう

シューマン/リスト
献呈
華麗に編曲された愛の贈りもの

シューマンが結婚式の前日、妻となるクララに贈ったのが
26曲からなる歌曲集<ミルテの花>。
「品よくデザインされた装飾をほどこして、装丁してください」
という出版者へ書き送ったシューマンの手紙も残されており、
愛の贈りものへの思い入れの深さが感じられる。
曲集はシューマンの「歌曲の年」とされる
1840年の1月から4月にかけて作曲された。


リュッケルトの詩による<献呈>はそのなかの第1曲にあたり、
「君はわが心、わが魂」
という愛の宣言が高らかに歌い上げられる。
リスト編曲によるピアノ独奏版は、
キラキラと光り輝くような衣装をまとい、
いちだんと装飾性を増しながら、華麗な力強さを感じさせる。
抑えきれない心のたかぶりを描写するかのような前奏にはじまり、
手探りで愛を確認するようにじっくりと歌曲のメロディが歌われていく。
穏やかな中間の部分を経て、最初のメロディが確信とともに響きわたる。

ピアニストとは?2

機械を使いこなす腕が必要
ピアノという楽器は、ある意味で人間から
いちばん遠いところにある機械です。
たとえば歌手なら、自分の身体を使って歌うし、
ヴァイオリンでもフルートでも
身体にとても近いところで演奏します。
しかし、ピアニストは、ひとりでは容易に動かせないような
重くて大きな楽器を相手にして演奏します。
しかも、そのピアノは、ネコが鍵盤の上に乗っても音が出るような、
完成されたメカニズム
(鍵盤からハンマーまでの一体化された部分)をもっています。
そのような楽器で音楽をするということは、
ほかの楽器とは違った難しさがあると思います。


ピアニストは“肉体労働者”
人はそれぞれ体格が違い、手の大きさも違います。
ですから、ピアニストはそれぞれの身体に合わせて、
自分なりの弾き方を見つけていかなければなりません。
演奏会でご覧になるとわかるように手の形、椅子の高さなどは、
十人十色で、弾き方もさまざまです(たとえば、ホロヴィッツは
指を伸ばして弾く、グレン・グールドは極端に椅子が低い、などなど)。
その意味でも、ピアニストは常に大きな楽器を相手にして、
それをなんとか駆使しようと努力する一種の肉体労働者でもあるのです。

ピアニストとは?1

ピアニストとは?

お客様に音楽を届ける仕事
ピアニストとは、ピアノという楽器を使って素晴らしい作品を
お客様の前で演奏する職業です。
ソロのリサイタルをはじめ、オーケストラと協奏曲を演奏するもの、
室内楽のメンバーとして参加するもの、
さまざまな形のコンサートがあります。
演奏する作品はいろいろな時代のものですが、
基本的に、作曲家が書いた楽譜というものが存在しています。
楽譜を読み、その音楽を自分(ピアニスト)という
フィルターを通して、表現していく。
そこに集う聴衆へ、現在に生きている自分が何をどう表現するか。
そういったことを追及し、実現していく。


けっして、作曲家が考えたことや意図したことを、
そのまま再現しようとするわけではありません。
作曲家の意図は謙虚に探りますが、演奏家は作曲家にはなれないわけです。
楽譜という一種の聖書のような、暗号のようなものを自分なりに読み、
解釈して、生きた音として立ち上らせる。
それがピアニストの仕事です。
そのために、自分が作り出したい音を充分に表現するための
テクニックが不可欠になり、そこにはもちろん感性が
結びついていなくてはなりません。
またコンサートで弾く場合には、演奏者とお客様との
コミュニケーションも大切です。

繊細な響きを求めて2

繊細な響きを求めて

ハンマーの改良
ちょうどこの時期のパリで、プレイエル、エラールと
並んで人気だったのが、ドイツ出身の製作者アンリ・パープのピアノである。
現在では、ほとんど忘れ去られているパープの数々の発明のなかで、
彼が弾力性のあるフェルトを初めてハンマーに使用したことは見逃せない。
それまでの羊や鹿の皮(ウィーン)、綿や羊毛(イギリス)で
覆ったハンマーと比べて、音色に硬さがなくなり、
現在われわれが耳にしているピアノの音により近いものとなった。


リストの影響
ところで、先のショパンとは対照的に、大ホールで大勢の聴衆に向かって
演奏することを好んだのがリストである。
彼は、演奏家としてエラールやブロードウッドを弾いていたが、
晩年になると、さらに次世代のピアノにも触れており、
ベヒシュタイン(1880年製、ベルリン)や
スタンウェイ(1882年製、ニューヨーク)も所有していた。
カール・ベヒシュタインは、1856年、リストのリサイタルを聴いて驚愕し、
このピアニストの力に耐えうる楽器を作ろうと決心したのだった。
しかしこれは、ベヒシュタインに限ったことではなく、リストの演奏は、
19世紀後半のドイツの製作者たちに大きな影響を与えたのである。

繊細な響きを求めて1

繊細な響きを求めて

より力強い響きを求めたイギリスに対し、
フランスでは、繊細なニュアンス、
柔らかい音色、連打の敏捷性といった、
ピアノの新たな表現性が探られた。
そして19世紀後半になると、
現代のピアノにより近い楽器が生む出される。

ショパンの時代
パリ時代(1831~49)のショパンが愛用していたのが、
フランスのピアノ、プレイエルとエラールだった。
プレイエル社は、カルクブレンナーやショパンなど
当時人気のピアニストたちの意見を採り入れながら、
羽のように柔らかいタッチ、ピアニッシモの繊細な表現にこだわり、
独自のピアノを生み出した。
これは、それまでのピアノ製作の歴史がより大きな音量を
求めてきたのとは、大いに異なっている。


したがってプレイエルの楽器は、決して大きくは響かなかったが、
少人数を前に演奏するのを好んだショパンにとっては、
その豊かなニュアンスゆえに、
エラールの改良が進んでも手放せない魅力があったようだ。
一方そのライヴァル会社エラールは、
1822年にダブル・エスケープメントという
近代ピアノ・アクションの原型を発明する。
これは、反復レバーを1本加えることで、
落下途中のハンマーが再度打弦するのを
可能にした装置であり、これによってトリルといった
装飾音や同音反復が容易に演奏できるようになった。
たとえばショパンの<子犬のワルツ>のような作品は、
こうしたエラールのピアノなしには生み出されなかったかもしれない。

2012年5月30日水曜日

19世紀のピアノの改良2

19世紀のピアノの改良

ブロードウッド社のピアノ
イギリスでグランド・ピアノの開発を推し進めたのが、
ブロードウッド社(創始者:ジョン・ブロードウッド)である。
1781年頃よりグランド・ピアノの生産を始めると、
演奏家(クレメンティほか)や音響学者の意見も採り入れながら、
音域の拡大、音量の増大を目指した。
A.バッカースが開発した「イギリス式アクション」と呼ばれる
「突き上げ式」アクションを改良し、よりパワフルなピアノを生産。
1820年頃には、グランド・ピアノに初めて鉄製の枠組みを採り入れる。
ベートーヴェンは、1817年製のブロードウッドの
ピアノを製造元から寄贈されている。


エラール社のピアノ
音量の大きさという点でベートーヴェンを大いに満足させたのが、
フランスのエラール社のピアノである
(創業1780年、エラール兄弟:セバスティアン、ジャン=バティスト)。
1803年、ベートーヴェンに贈られたエラール社のピアノは、
音域が5度増えた上、弦の数もそれまでのウィーン式の2本に
対し3本に強化され、低音や和音がこれまでになく豊かに響いた。
さらにベートーヴェンにとって、
これは、足ペダルを備えた最初のピアノだった。
当時彼が作曲したピアノ・ソナタ、たとえば<ヴァルトシュタイン>には、
このエラールの改良を積極的に音楽表現に採り入れた跡がみてとれる。

19世紀のピアノの改良1

19世紀のピアノの改良

18世紀後半から19世紀前半にかけて、ピアノは、
ウィーンで技術的深まりをみせると同時に、
産業革命を経たイギリスに、次いでフランスに広まっていく。

ベートーヴェンとその周辺
ウィーンのフォルテピアノ製作は、1790年前後に急成長し、
シュタインの考案した「ウィーン式アクション」が
またたく間に普及した。
19世紀初頭にウィーンで活躍した製作者としては、
シュタインの娘ナネッテ・シュトライヒャーがいる。
生涯彼女と親しかったベートーヴェンは彼女に、
ウィーン独特の繊細な音色を守りつつ、
もっと音量が大きく、「強打に耐えうる」楽器への改良を求めた。
数年後、改良された楽器を目の当たりにしたベートーヴェンは、
中断していたピアノ・ソナタの作曲を再開し、
ピアノ協奏曲5番<皇帝>もこの楽器から生み出された。


スクエア・ピアノ
一方ドイツでは、七年戦争(1756~63)を避けて、
優れた楽器製作者たちがイギリスへ移住し、その技術を伝えた。
その代表格がヨハンネス・ツンペ(英名:ジョン・ズンペ)である。
ツンペはまた、小型で安価な楽器、
スクエア・ピアノの製作ラインも定着させた。
これは、単純な構造ながら、クラヴィコードよりも音量が大きく、
音楽表現の点でもニュアンスに富んでいたため、
18世紀末のイギリス社会で急速に普及していた。

ウィーン式ピアノの完成

「ウィーン式」ピアノの完成

ウィーンのフォルテピアノの製作者たちは、
シュタインのアクションを受け継ぎ、
彼ら独特の柔らかく軽やかな音色を生み出していく。

シュタインのフォルテピアノ
1777年、母親とマンハイム、パリへの旅の途上のモーツァルトが、
アウクスブルグの鍵盤楽器製作者
ヨハン・アンドレアス・シュタインの工房を訪ねた。
彼はその楽器の印象を興奮した調子で父親に書き送っているが、
とりわけ自作の二長調ソナタ K.284が、
「比較にならないほどよく響いた」らしい。
この頃すでにシュタインは、ハンマーを軽量化するだけでなく、
中間レバーなしで鍵盤とハンマーを直接に接触させる
「跳ね上げ式」アクションを考えだしており、
モーツァルトが演奏したフォルテピアノは、
以前ほど強く鍵を押す必要のない楽器だったのである。
その後シュタインは、ハンマーの向きを逆にし、
いわゆる「ウィーン式アクション」を完成させる。
このアクション方式が、ウィーンの製作者たちに
引き継がれていったのである。


ヴァルターのフォルテピアノ
一方、ウィーン時代のモーツァルトが特に気に入っていたのが、
アントン・ヴァルターのフォルテピアノである。
ヴァルターは1790年に
「宮廷付きオルガン製作兼楽器製作家」の称号を得て、
ウィーンのもっとも優れた製作者としての地位を確立する。
彼は、真鍮製のカプセル(ハンマーの回転軸部)を使用したり、
バック・チェック機構(ハンマーの2度打ちを防止する装置)を
改良したりと、シュタインの楽器をさらに重厚なものとし、
ヴィルトゥオーソ的な表現をフォルテピアノでも可能にした。
なお、軽やかなシュタインと重厚なヴァルターの
ちょうど中間に位置するフェルディナント・ホフマン製作の楽器も、
ウィーンならではのその優しく柔らかな音色ゆえに、
この時代のフォルテピアノとして無視できない存在である。

モダンピアノへの道

モダン・ピアノへの道

クリストフォリとジルバーマンのピアノがどちらかといえば、
チェンバロとクラヴィコードの中間に位置する楽器だったのに対し、
ジルバーマンの弟子の世代がオーストリアやイギリスで活躍する
18世紀後半には、モダン・ピアノにより近づいた
フォルテピアノの製作が盛んとなる。
だが、それでもまだ音域は狭く、ボディも華奢で、
フォルテピアノの改良は19世紀に入ってもなお続いた。

フォルテピアノ
フォルテピアノは、モダン・ピアノのような頑強な鉄骨枠ではなく、
木のボディをもち、その結果、重量もずっと軽い。
モダン・ピアノが一般に88鍵なのに対して、60~70鍵程度、
5オクターヴ程度の音域に留まっているが、ハンマーが小さい分
タッチが軽く、音色がまろやかである。
フォルテピアノの特徴は、まさにその名称の示す通り、
フォルテ(強い音)とピアノ(弱い音)が自在に出せるところにある。
この点からみてもこの楽器は、C.P.E.バッハやハイドン、
そしてモーツァルトといった作曲家にとって、
チェンバロに代わる最新の鍵盤楽器だった。
彼らはしだいに、フォルテピアノを意識した作品を作曲するようになる。

ピアノの発明

ピアノの発明

現代のピアノの原型は、イタリアのクリストフォリによって
生み出されたといわれている。
その楽器は当時、「ピアノとフォルテの出るチェンバロ」と呼ばれていた。

クリストフォリ
楽器製作であり、メディチ家所蔵の楽器を修復する
楽器修復家でもあったバルトロメオ・クリストフォリ。
1700年に編纂されたメディチ家の楽器目録に、
クリストフォリが新しく発明した楽器についての記述があり、
ピアノの原型となる楽器は、
1690年代の終わりには製作されていたと推測される。


ジルバーマン
しかしクリストフォリのこの画期的な発明は、
彼の住むイタリアではさほど注目されなかった。
当時のイタリアでは、ピアノ(チェンバロ)は
声楽の伴奏楽器とみなされており、
まだ独奏楽器としての地位を与えられていなかったのである。
そんな中、クリストフォリの名は、ドイツでも知られるところとなり、
彼の技術を手本として製作を試みる楽器製作者が現れる。
ゴットフリート・ジルバーマンである。
ジルバーマン家は、主にオルガン製作者として活躍していた一族で、
そのひとりゴットフリートも、すでにクラヴィコードや
チェンバル・ダムールといった楽器を手がけていた。
ベルリンに招聘されたイタリア人歌手たちが、
おそらくクリストフォリの楽器をドイツに運び、ゴットフリートは、
評判の楽器に実際に触れる機会を得たのだろう。
彼は。クリストフォリのアクションをそのまま継承する一方、
手動式ではあったが、ペダルの機能を追加するなど、
独自の試みも行っている。
その製作技術の高さは、時のフリードリヒ大王も認め、
王はたくさんの楽器をジルバーマンに注文したという。
またすでに彼と交流のあったJ.S.バッハは、ジルバーマンの楽器を試奏し、
「高音域が弱い」といった問題点を指摘したが、
改良が重ねられた楽器には、大きな讃辞を贈ったとも伝えられている。
ゴットフリート・ジルバーマンは、ドイツにおける
ピアノ製作史の1ページを開いたのである。

クラヴィコード

クラヴィコード
現在、にわかに注目を集めるクラヴィコード。
この楽器は、18世紀の作曲家たちにとって
もっとも身近な鍵盤楽器だった。

甘美で繊細な音色
「きわめて洗練された趣味の演奏をするとき、
クラヴィコードは、一番の支えになってくれます」(C.P.E.バッハ)、
「甘美で、魂のどんな息づかいにも敏感なクラヴィコード」(ショーバント)。
クラヴィコードは、フォルテピアノの台頭とともにしだいに忘れられていったが、
バッハ・ファミリーも、ヘンデルも、
モーツァルト父子も18世紀の音楽家たちの誰もが
この楽器を愛し、もっとも身近な鍵盤楽器として日々演奏していた。


音の陰影を表現できる楽器
クラヴィコードは、可動式の駒をもつ中世の単弦楽器、
モノコード(一弦琴)を発展させた楽器である。
とてもシンプルな構造で、鍵盤を押すと、その先に付けられた
タンジェントと呼ばれる金属ピンが弦に触れ、音が発せられる。
ただその音は、驚くほど細く、現代の演奏会場では
ほとんど聞き取ることができない。
しかしその反面、鍵盤を押す指に弦の感触が伝わるので、
力を加減してヴィブラートをかけたり、強弱の変化をつけたりできる。
音の陰影を表現するのにもっとも適した楽器といえるだろう。
自らが音楽を楽しむために、あるいはこの時代の音楽を実感するために、
最近クラヴィコードの愛好者が、ピアニストの間でも増えているようである。

チェンバロ

チェンバロ

日本では「チェンバロ」という呼び方が一般的だが、
これはイタリア語であり、英語では「ハープシコード」、
フランス語では「クラヴサン」と呼ばれている。
音の出るしくみはピアノとは異なるが、ピアノが登場する以前、
17~18世紀のヨーロッパで広く使われた鍵盤楽器、
それがチェンバロだった。


一段鍵盤と二段鍵盤
チェンバロは、弦を叩くのではなく、引っ掻いて音を出す。
もっとも古い記録としては、14世紀の史料に
「クラヴィチェンバルム」の名称が記されている。
この楽器は、16世紀初頭のイタリアでその原型がほぼ確立され、
その後アルプスを越えると、さまざまな改良が加えられた。
ボディも薄く一段鍵盤が主流だったイタリア製に対し、フランドル、
フランスでは、二段鍵盤の楽器が生み出された。
この結果、音域が拡張され、フォルテとピアノの音量を
使い分けることも可能となる。
また弦をはじく爪の改良や、音色を変えるレジスターの発明によって、
音色が多様になっていった。
こうした改良を経て、生産地によってそれぞれ固有の特徴が生まれた。
たとえば、ボディの重厚なジャーマン・タイプは、渋みのある音色だが、
フレンチ・タイプは、柔らかく絹のような音を奏でる。
クープランやラモーが作曲したフランス・クラヴサンの美しい諸作品は、
こうした楽器の隆盛とともに誕生したのである。

ピアノのルーツは?

ピアノのルーツは?

「ピアノ」と呼ばれる楽器が誕生したのは、
1700年頃だが、そのルーツは、
15世紀にまでさかのぼることができる。

「弦を叩く」楽器
ピアノは、「弦を叩く」ことで音を出す打弦楽器である。
この原理からそのルーツをたどると、箱型の胴に複数の弦を張り、
2本のばちで叩く「ダルシマー」という楽器に行き着く。
ダルシマー(原義は「甘い響き」)は、
現在でも民族音楽の楽器として各地に残っており、
代表的なものとしては、「ダルシマー」(英語圏)、
「サントゥール」(トルコ、イラン)、
「揚琴」(中国)などがあげられる。
われわれ日本人になじみがあるのは、
ハンガリーやロマ(ジプシー)の民族音楽で
使われている「ツィンバロン」だろう。


「弦をはじく」楽器
一方、同じ形態ながら弦を爪や指ではじいて演奏する楽器は、
「プサルテリウム」(プサロ=引っ掻く(ギリシア語))と呼ばれる。
おおまかに言うと、ピアノは「ダルシマー」が、
チェンバロは「プサルテリウム」が祖先ということになるだろう。

ブランドピアノファツィオリ

ブランドピアノ ファツィオリ

世界が注目する新しいピアノ・ブランド

イタリア代表の新ブランド

今、チッコリーニやブレンデルといった
著名なピアニストたちから注目されている
新ブランド、それがイタリアのファツィオリだ。
1981年に創業したばかりの新興メーカーが、
伝統を重んずるピアノ製作の世界で
これほど話題にされるのは、稀有なことである。
創業者のパオロ・ファツィオリは、
イタリアのピアニスト兼エンジニア。
一族は代々家具メーカーだった。
ピアノ工場は、ヴェネツィアの北60km、
フィエンメ渓谷にほど近いサチーレにあり、
渓谷の良質な赤トウヒが、響板に使用されている。


特徴
現在、ファツィオリ社が製造しているのは、
6つのタイプのグランド・ピアノだけである。
すべてが手作業で行われ、生活生産台数も約120台程度とかなり少ない。
そのなかで人気と話題をさらっているのが、
現時点でもっとも大きなコンサート・グランド・ピアノと
いわれているモデル F308。
これは、特に大きなコンサート・ホールのために
設計されたというだけでなく、
音色を変えることなくピアニッシモが弾けるようにと
第4のペダルが取り付けられている点でも画期的である。
その音質は明るくエレガントで、ダイナミクスの幅があり、
すべての音域で同質の音色が実現されていると評判。

ブランドピアノペトロフ

ブランドピアノ ペトロフ

現在も愛され続けている東欧の老舗ブランド

チェコの老舗メーカー
ピアノ製作の伝統が古くからあるウィーンや
東ドイツに近いこともあって、由緒あるピアノ・ブランドが、
東欧で生き続けた。
チェコを代表するピアノ・メーカー、ペトロフである。
創業は1864年。ウィーンで修業を積んだアントニン・ペトロフが、
彼の故郷フラデツ・クラーロヴェ(ボヘミア北東部)で
グランド・ピアノを製作したのが始まりだった。


ウィーンの技術を守りながら、近代化も積極的に推し進めたペトロフは、
1899年に「オーストリア=ハンガリー帝国宮廷御用達のピアノ製作者」の
称号を取得する。
20世紀前半には、ヨーロッパを代表するピアノ・メーカーのひとつとして、
日本や中国、南米にまで輸出した。
戦後は、共産党の政権下で国営企業として生産を続けたが、
1991年にふたたび民営化。
現在は、五代目のペトロフが経営を握り、
従業員1000人を抱える大ピアノ・メーカーとなっている。

プレイエルの特徴

プレイエルの特徴

19世紀前半、ピアノの詩人ショパンと
カミーユ・プレイエルの出会いは、
プレイエル・ピアノの響きに繊細さをもたらした。
その伝統は、フランス随一のピアノ・メーカーとなった
今でも伝えられている。

プレイエルの最大の魅力は、軽いタッチと歌うように伸びやかな音にある。
それは、響板と響棒の特殊な構造、雑音を抑える「鼠鉄鋳」といった
プレイエル伝統の技術に支えられている。


21世紀の新たなコンサート・グランドとして発表されたモデルP-280は、
ドイツの老舗メーカーシュタイングレーバー&ゼーネ社の優れた技術者たちと
フランスの歴史ピアノ修復家A.ルディエの協力を得て製作された。
これは、プレイエルが19世紀末に製作した最良のピアノの基本が活かしつつ、
最新の技術研究の成果が盛り込まれた逸品である。
色彩感あふれる音色、持続する音、
そして19世紀末のプレイエル・ピアノならではの柔らかな響き、
「2世紀にわたる伝統と知識を1台のピアノに集約した」
新しいプレイエルの顔となっている。

2012年5月29日火曜日

フランスのピアノプレイエル

フランスのピアノ プレイエル

フランス随一のピアノ・メーカー

1807年にピアノ製作を始めた創業者のイニャース・プレイエルは、
オーストリア出身で、ハイドンの教えも受けた作曲家。
彼の息子のカミーユは、英国女王の御前演奏をするほどの
優れたピアニストだった。
創業者が音楽家だった点は、他のヒピアノ製作会社と異なっており、
プレイエル・ピアノの原点ともいえる。
カミーユは、演奏家としてイギリスに滞在中も、
ブロートウッドらの優れたピアノ製作者を学んではいたが、
やはり彼にとって決定的だったのは、パリでショパンとの出会いだった。


ピアノという楽器そのものの表現性を追及した彼らの交流から、
陰影豊かなピアノが生み出されたのである。
ライヴァルのエラールとしのぎを削っていた1870年代には、
生産台数が年間2500台を超えていたといわれるが、
19世紀は経営破綻と合併を繰り返す。
しかし、1990年代の末に、フランス人がピアノ製作部門を、
次いでサル・プレイエル(1927年にオープンした音楽ホール)の
経営権を握り、2007年には閉鎖していたパリ郊外の
サン・ドゥニ工場の生産が再開された。

ベヒシュタインとブリュートナーの特徴

ベヒシュタインとブリュートナーの特徴

ベヒシュタインは、その透明な響き、高貴な音色は、
「ピアノのストラディヴァリウス」と
呼ばれたこともあるベヒシュタイン。
それに対して、チャイコフスキーやフルトヴェングラーに愛された
ブリュートナーはロマンティックな響きをもっている。

ベヒシュタインの特徴
フル・コンサート・ピアノD 280、
最高のアップライトと称されるコンサート8から、
教育用のアカデミー・シリーズまで多数のモデルがある。
固有の除響板、長期間シーズニングされる音響的に
優れた高品質な鉄骨、特殊な弦設計等の技術が、
透明感ある響き、色彩感、安定した構造を支えている。

ブリュートナーの特徴
共鳴弦を1本加えることで、音の響きを豊かにする
「アリコート・スケーリング」
(1872年特許取得、現在は高音部にのみ採用)や
響板の特殊な加工技術などが、ブリュートナー特有の音を生み出している。
代表的なモデルに、Model 1のコンサート・グランド、
創業者の名前をとったユールウス・ブリュートナーなどがある。

ドイツのピアノ ブリュートナー

ドイツのピアノ ブリュートナー

西ドイツのベヒシュタインに対して、
東ドイツを代表するメーカーがブリュートナーである。
1853年、ユーリウス・ブリュートナーが、
音楽の街、ライプツッヒで創業し、
現在も彼の子孫が経営を続けている。
これまでに生産された台数は15万台と決して多くはないが、
ブリュートナーが取得した数々の特許から生み出される芳醇な響きには、
ピアニストだけでなく、歌曲の歌い手たち、
室内楽の演奏者たちの間でもファンが多い。


その他ドイツの名器
2社のほかにも、ドイツには、今なお、
バイロイトのシュタイングレーバー&ゼーネ(1852年創業)や
ブラウンシュヴァイクのグロトリアン(1835年創業)といった、
高品質の生産を続ける老舗メーカーが残っている。
公社はスタンウェイとの関係も深く、
クララ・シューマンが愛用したことでも知られる。

ドイツのピアノ ベヒシュタイン

ドイツのピアノ ベヒシュタイン

フランスで最新の技術を学び、
1853年にベルリンで創業したカール・ベヒシュタインは、
1856年、リストの力強い演奏に衝撃を受ける。
「この演奏に耐えうるピアノを製作したい。」
こうした思いから出来上がった楽器は、
リスト本人やH.v.ビューローから高い評価を得た。
その後も、精度の高い生産技術を保ち続け、
英国のヴィクトリア女王をはじめとしてヨーロッパ中の宮廷で愛用される。
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、その人気は頂点に達した。


1901年、ロンドンに建設されたベヒシュタイン・ホールの存在は、
その隆盛ぶりを物語っている。
20世紀に入ると、戦争による工場の破壊、営業不振など、
ベヒシュタインにも低迷期が続き、
60年代にはアメリカ資本の投入を促した。
しかし20世紀末、ふたたびドイツ人が経営者となり、
国内のピアノ・メーカーを傘下に収めると、
国内の拠点を増加させていった。
近年は、アメリカ、ロシア、中国へも進出し、
経営のグローバル化をはかっている。

日本のピアノ カワイ

日本のピアノ カワイ

「日本の楽器王」河合小市が切り開いた道

創業者の河合小市は、日本楽器(後のヤマハ)に入社し、
アクションの製作に成功するなど、寅楠や直吉から
「天才職人」と称された。
しかし、寅楠がこの世を去ると、
職人気質の小市は、日本楽器を辞職。
1927年には、「河合楽器研究所」を浜松市に設立した。
1928年にはアップライト第1号「昭和型」を、
翌年にはグランド・ピアノ「平台1号」を完成させ、
すぐさま販売を軌道に乗せている。
1950年代より、新しいグランド・ピアノを次々と発表。


1970年には、アクションなどに、
亡き河合小市の基本設計をそのままに踏襲した
「カワイ・グランドKGシリーズ」6種を完成させ、
そのマイルドな音色は「カワイ・トーン」として親しまれていた。
1980年には、グランド・ピアノ専門の東洋工場を建設し、
翌81年にはフル・コンサート・ピアノ「EX」を発表。
このピアノは、1985年、ショパン国際ピアノ・コンクールで
公式ピアノに認定され、2000年には、
予選からEXを選んだI.フリッターが第2位に入賞したことで話題を呼んだ。

ヤマハの特徴

ヤマハの特徴

多くのピアニストが賞賛の言葉を贈る
「NewCFⅢシリーズ」は、
ヤマハのピアノ作り100年の集大成である。
豊かでブリリアントな響きと、
演奏家の要求に応える自在な演奏性能。
その音作りへのこだわりは、響板、響棒、巻線、駒、
ハンマー、アクションなどの形状や材料のあらゆる細部で、
見直しが繰り返されてきた。
またすべての部品が自社生産で、
響板塗料にいたるまで独自に開発が行われている。


サイレントアンサンブルピアノ特注モデル
時間を気にせず演奏が楽しめる。
消音機能と自動演奏に加え、
多彩な楽器音とのアンサンブル演奏も可能。

SU7
ヤマハ・アップライト・ピアノの最高峰モデル。
最高品質の音にこだわり、
CFⅢSと同等のハンマーフェルトが採用されている。

世界的ピアノ・コンクールの公式ピアノ

世界的ピアノ・コンクールの公式ピアノ

同社は20世紀初頭に工場の数を増やし、
事業を拡大させるとともに、ベヒシュタインのシュレーゲルなど
ドイツから技術者を招聘し、技術の吸収に努めた。
第2次大戦後は、1947年からピアノの生産を再開し、
1950年に最初のフル・コンサート・ピアノを完成させる。
1957年、シカゴの楽器ショーに出品。
以後、輸出台数も増加し、
1962年にはピアノの生産台数を世界トップとした。
第4代社長川上源一の時代に、
生産ラインの合理化と量産システムが推し進められた。
同時に、スタインウェイに劣らない演奏会用の
コンサート・グランドを目指し、
1967年、「CFシリーズ」を世に送り出した。


ヴィルヘルム・ケンプによる披露演奏会が開かれ、
このピアノは高い評価を受ける。
その後もこのシリーズは改良を重ね、1991年に「CFⅢS」、
96年と2000年に「NewCFⅢS」が発表される。
これらのモデルは、ショパン国際ピアノ・コンクールを
はじめとして著名なコンクールや
音楽祭において、公式ピアノとして採用されるに至っている。
なお1987年に、創業100年を記念して、
社名を「ヤマハ株式会社」に変更した。

日本のピアノヤマハ

日本のピアノ ヤマハ

世界に認められた日本ブランド
日本の浜松で誕生した、ヤマハとカワイ。
この2社は世界をリードするピアノ・メーカーへと成長していく。

それまで時間や医療機器などの修理をしていた山葉寅楠の楽器作りは、
たまたま依頼された、浜松のとある小学校のオルガン修理から始まる。
1887年には国産の足踏みオルガンの製作に成功し、
音楽取調掛(東京芸術大学の前身)の井沢修二に認められる。
89年に、日本風琴製作所を設立するが、
ライヴァル会社の西川オルガン製作所
(西川虎吉設立)が、舶来の新しい楽器
「洋琴」(現在のピアノ)を製作に乗り出した。
1897年には、日本音器製造株式会社を設立する。


寅楠がピアノ製作を始めた時期は、ちょうどイギリス、
フランスのピアノ製作が衰退をみせ始め、
その座をアメリカやドイツのメーカーに譲った時期と重なる。
寅楠は1900年渡米し、5ヵ月にわたって、
ピアノの材料や部品を扱う工場から
組み立て工場まで100か所以上を精力的に見てまわった。
さまざまな部品を買い付けて帰国すると、
その年のうちにアップライトを、
1902年にはグランド・ピアノを完成させている。
だが、同じ時期に製作された「カメン・モデル」こそ、
響板も部品もすべてヤマハで作った最初のピアノであり、
国産ピアノ第1号ということになる。

ベーゼンドルファーの特徴

ベーゼンドルファーの特徴

ベーゼンドルファーは、何よりも「響き」を重視し、
「楽器全体が鳴る」構造を意識して製作されている。
響板と側板は同じ材質でできており、
側板は、細かな切り込みを入れた木材が、
手作業によって翼(フリューゲル)の形へと曲げられていく。
ベーゼンドルファーは、弱音が美しく、
どこか潤いがあり、暖かい。
また、モデル290「インペリアル」は、
鍵盤の数が通常よりも多いことで有名で、
ベーゼンドルファーの代名詞的存在となっている。
最低音がさらに下のC音まで下げられ、
88鍵ではなく97鍵備えている。


リスト・モデル
リストがベーゼンドルファーのピアノを使用した演奏会が
成功を収めたことを機に、ベーゼンドルファーの名は広く知れわたった。

ベーゼンドルファー創業180周年記念モデル
世界で50台の限定モデル。
古典的でエレガントな輪郭線や美しい鍵盤蓋が魅力。

デザイン・モデル エッジとポルシェ
ベーゼンドルファーと著名なデザイン社とのコラボレーションにより、
新しいフォルトのピアノも発表されている。

ベーゼンドルファー

ベーゼンドルファー

輝かしいウィーンの響き
音楽の都ウィーンで生まれ、「ウィンナー・トーン」と
呼ばれる響きをもつベーゼンドルファー。
その歴史は、徹底した手作業で貫かれ、
リストをはじめとするピアニストたちの評価によって支えられてきた。


創業者のイグナツ・ベーゼンドルファーは、
ウィーンの家具職人の家に生まれ、
オルガン職人を経て、ピアノ製作の道へと入った。
彼がピアノ製造業者として独立するのは1828年。
前年にはベートーヴェンが、同年にはシューベルトが没している。
ウィーンで過ごしたこうした音楽家たちの
名声が彼らの死後徐々に高まり、
「音楽の都ウィーン」という認識が確立していくのと平行して、
ベーゼンドルファーは発展をみせたのだった。
1830年には、早くもオーストリア皇帝より
「宮廷および会議所ご用達のピアノ製造者」の称号を得、
1839年と45年のウィーン博覧会でも、高い評価を受けた。
だが何といっても、ベーゼンドルファーの名を
一躍ヨーロッパ中に知らしめたのは、
当時の人気のピアニスト、リストだった。

ベーゼンドルファー手作業の精神

ベーゼンドルファー手作業の精神
1859年にイグナツが亡くなると、
息子のルートヴィッヒがその後を引き継ぐ。
翌年、新しい工場に移り、早速新しいアクションの特許を取得、
1870年には、さらに広い工場へと移転している。
1872年、リヒテンシュタイン皇太子の乗馬学校を、
その音響のよさからコンサート・ホールに改築して、
ベーゼンドルファー・ホールとし、
ハンス・フォン・ビューローのリサイタルで柿落としが行われた。
このホールは、1913年まで、ウィーンで
もっとも美しい室内楽ホールとして知られ、
アントン・ルビンシテイン、リスト、ブラームスなど
名だたる音楽家がここでコンサートを開いた。


そしてそれはまた、ベーゼンドルファーのピアノを
幅広く知らしめる機会ともなった。
1900年以降、ルートヴィッヒは、
反復音を容易にするイギリス式アクションや
扇状交叉弦を採り入れるなど、改良を推し進める。
1909年には、信頼する友人に事業を売却。
両大戦の被災や生産台数の落ち込みを経て、
第2次大戦後はアメリカの企業の手に渡った。
その後、オーストリアの銀行グループの傘下に入り、
2008年より、日本ヤマハの傘下となる。

スタインウェイ&サンズの特徴

スタインウェイ&サンズ

日本の音楽界でも多数使用されるコンサート・グランド

スタインウェイ&サンズ社は、
現在、ハンブルグとニューヨークにある工場でピアノを生産している。
日本の多くのコンサート・ホールで使用されているのはハンブルグ製。
一般に、ハンブルグ製とニューヨーク製には、音色やタッチに
それぞれ特徴があるといわれている。


特長
創業以来、100を超える特許を取得している。
数ある特徴のなかでも、「フレームが鳴る」という
スタインウェイならではの感覚が得られる理由として、
中央部分9mmから縁周り6mmになるよう仕上げられた響板、
15~18枚の一体成形された薄い板を重ねて、
それに強い圧力をかけて曲げられた側板、
縦方向に木目をそろえ、幾重にも薄板が貼り合わされた駒、
指のタッチを正確に伝えるため木材の芯を充填したアクション、
打弦されない弦が共鳴するような設計された
「デュプレックス・スケール」といった工夫があげられる。

2012年5月25日金曜日

スタインウェイ&サンズ

スタインウェイ&サンズ

コンサート・グランド・ピアノの王者
スタインウェイとベーゼンドルファーの両横綱を筆頭に、
現在、製作・販売されているピアノ・ブランドの数々。
まずは、世界中のコンサート・ホールに設置され、
ピアニストたちに愛されている王者スタインウェイ。

スタインウェイの歴史は、1836年、それまでオルガン製作者だった
ハインリッヒ・エンゲルハルト・シュタインヴェークが、
北ドイツのゼーゼンにある自宅の台所で1台のグランド・ピアノを
製作したところから始まる。


ところが、1848年の革命のあおりを受けて、
1850年にシュタインヴェークー家は、
長男のテオドールだけを残し、ニューヨークと移住する。

1853年には、名前を英語読みにして「スタインウェイ」と名乗り、
4人の息子たちとともに「スタインウェイ&サンズ」を設立した。

すでにアメリカでは、18世紀末にヨーロッパから多くの楽器製作者たちは
移住していたこともあって、小型ピアノやスクエア・ピアノが人気を博していた。

2012年4月21日土曜日

ピアノは魔法の箱

演奏前の舞台。
客席のざわめきとは別世界のように、厳かに、凛と存在するピアノ。
そのたたずまい、気品が好き。

ひとたび、音が奏でられれば、空間が一体となり溶け合っていく。
そんな魔法の箱が、ピアノ。

学校の音楽室の片隅で、子供たちの喧騒の中で鳴るピアノ。
発表会の緊張の中に妙に光って見えるピアノ。
リビングで、いつしか弾かれなくなってしまったピアノ。
皆さんの日常の風景の中、思い出の断片が、
どこかに必ずあるはずです。
ピアノとともに。

楽器なのに、誰でも音が出せる。ネコが乗っても音が出る。
そんなとても身近なもの。
でもどうして、それほど簡単に音が出るのか、
意外と知られていません。
みんなが弾けるんだけれど、とっても難しいわけも。

ピアノという楽器は芸術品です。大変に高価なものです。
限られたプロフェッショナルが持つ値のつけられないような弦楽器を
除けば、いちばん高価な部類に続する楽器です。

だからといって、貴重な骨董品ではないのです。消耗品なのです。
そればかりか、なんと、生き物なんです。

ですから、皆様に大きな愛でもって、
大切にその使命を全うさせていただきたい。


ピアノ一台一台がもっている個性を、
全うさせていただきたい。

高級品だから使わないで飾っておこう
なんて、もってもほか。
大事に、機械部分には手が加えず、
そのままにしておこうなんて論外。

どんどん弾いてこそ、ピアノは喜ぶ。
そして、どしどしメンテナンスをする。

メンテナンス!これ、一番大切。
だって、調子を整えてもらわなければ、
細やかな芸術は奏でられませんもの。

あまりに近しい存在すぎて、
知らなかったことがいっぱい。
目から鱗がぼろぼろ落ちるはず。

そして、ピアノという魔法の箱が、300年にわたって
世界中を魅了してきた秘密を知れば、ますますその虜になることでしょう。