2012年5月31日木曜日

ピアノの名曲を聴こう ポロネーズ変イ長調<英雄>

ピアノの名曲を聴こう
ショパン
ポロネーズ変イ長調op.53<英雄>
勇壮で華々しい魅力をたたえたショパンの代表作
7歳で作曲したポロネーゼがショパンの最初の作品だった。
幼い時から書き続けたこの形式のひとつの頂点を極めたのがこの曲。
つぎつぎと傑作群を生み出していた1842~43年に作曲された。


<英雄>はショパンが付けたタイトルではないが、
その名にふさわしい勇壮で大規模な作品。
3つの部分からなる。
何かが始まる期待感にあふれた序奏に続き、
高らかな勝利の凱歌が華々しく鳴りわたる第1部。
太鼓の合図のような7つの和音で第2部に入り、
左手のオクターヴの刻みにのせて息の長いメロディが歌われていく。
磨き上げた甲冑に身を固めた騎士たちの一団が
行進していくさまが目に浮かぶよう。
流れるような優美さをみせたのち、勝利の凱歌が戻り第3部に。
そのまま圧倒的な興奮とともに曲は結ばれる。

ピアノの名曲を聴こう 愛の夢

ピアノの名曲を聴こう
リスト
愛の夢
心を捉えて離さないアイドル・リスクの名曲

リスクが自作の歌曲をピアノ用の編曲した3つのノクターン<愛の夢>
の第3番にあたり、<ラ・カンパネッラ>とならび、
リストのピアノ曲中もっとも有名な作品。
通常<愛の夢>といえば、この第3番のことをさす。
1850年に編曲され、同年連作集として出版された。
ドイツ・ロマン派の詩人フェルディナント・フライリヒラートの
詩に作曲した<おお愛しうる限り愛せ>が原曲。


ショパンのノクターンを思わせるシンプルながら印象的な作品。
ハーブのような分散和音にのせて、
たっぷりとした甘いメロディが前奏もなく歌いだされる。
最初は中音域でろうろうと歌われるこのメロディはカデンツァをはさみ、
高音域に移る。情熱を帯びながら高揚していき華麗さを増したのち、
ふたたびカデンツァに。
最初のメロディが戻り、優しくうなずきかけるような和音を
間の手にそっと歌われる。
最後は余韻を残して静かに結ばれる。

ピアノの名曲を聴こう ワルツ変ニ長調<子犬>

ピアノの名曲を聴こう
ショパン
ワルツ変ニ長調op.64-1<子犬>
愛らしい子犬を思わせる人気曲

全21曲あるショパンのワルツのなかでもっともよく知られた作品。
生前に発表された最後のワルツ集である、
1847年出版の<3つのワルツ>
op.64の第1曲目にあたる。
1846~47年に作曲され、友人で支援者の
デルフィナ・ポトツカ伯爵夫人に献呈された。
ショパンの命名ではないが、タイトルの由来は
ショパンの愛人ジョルジュ・サンドが
ノアンの家で飼っていた小犬のエピソード。
自分のしっぽを追いかけるぐるぐるとまわる
小犬の様子を音で描いてほしいという
サンドのリクエストに応えて作曲されたといわれる。
急速なテンポでころころと転がるような音の動きに、
たわむれる小犬が目に浮かぶ。


ここが聴きどころ
愛らしい感じのある曲
冒頭の部分では、狭い音程のなかを半音階的に
めぐる細かな音に快活な動きが感じられ、
中間部ではちょっと音程が離れて動きが少し変わります。
全体としてはそれほど大きな変化はない曲ですが、
わずかな違いで動きの多彩さが感じられる曲です。
またワルツのリズムは軽やかで、ペダルの指示は細かくされており、
ささやかな和声の違いを際立たせながら、軽快さを演出しています。

ピアノの名曲を聴こう ノクターン変ホ長調

ピアノの名曲を聴こう

ショパン
ノクターン変ホ長調op.9-2
繊細で甘いメロディにうっとり

ノクターンは、マズルカやワルツとともにショパンの生涯にわたって
折にふれ作曲し続けられ、作風の変化・深化がよくわかるジャンル。
全21曲が残されており、そのうち18曲は生前に出版されている。
op.9は3曲からなり、ショパンのノクターンとしては
いちばん早い1832年に出版された。
このop.9-2は、ショパンのノクターンのなかでもっとも
よく知られた1曲で、ノクターン第2番とも呼ばれる。


左手の伴奏音型にのって、ほのかな憧れがこめられた
甘く夢見るようなメロディがしっとりと歌い出される。
このメロディは、毎回違った装飾を加えられながら
繰り返し歌われていく。
やがて左手の伴奏が止まり、短いカデンツァを経たのち、
夢のなかへ沈んでいくように静かに結ばれる。
センティメンタル一辺倒に流れてしまうと、
少し安っぽくなってしまうため、
演奏者には磨き抜いたタッチでしっかりと抑制を
効かせながら弾くことが求められる、
一筋縄ではいかない難しい作品でもある。

ピアノの名曲を聴こう 紡ぎ歌

ピアノの名曲を聴こう

メンデルスゾーン
紡ぎ歌
軽快に舞うメロディが魅力の愛らしい小品

フェリックス・メンデルスゾーンは、ドイツ・ロマン派を
代表する作曲家のひとりである。
裕福な家庭に生まれて、早くから音楽の才能をあらわし、
10代後半にはすでに
弦楽八重奏曲や<真夏の夜の夢>などの名作が高い評価を得ていた。
38歳という若さで亡くなったが、彼がその生涯にわたって、
折にふれ書き続けた全8巻
48曲からなる。<無言歌集>は、
愛らしく美しい小曲が並んだ魅力的な作品集である。


この<紡ぎ歌>は、その<無言歌集>のうち、
メンデルスゾーンが30代前半に作曲した
第6巻の第4曲にあたる作品で、曲集のなかでは、
第5巻終曲の<春の歌>などと並んで
もっとも親しまれている曲であろう。
冒頭の、回転する紡ぎ車を模したような印象的な音型は、
やがて伴奏となり、その上を飛び跳ねるようなメロディが軽快に舞う。
歌を口ずさみながら糸紡ぎの仕事をしている
乙女の姿が想像できる楽しい曲である。

ピアノの名曲を聴こう エジプトの女

ピアノの名曲を聴こう

ラモー
エジプトの女
装飾音をふんだんにまとったエキゾティックな小品

ジャン=フィリップ・ラモーは18世紀フランスを代表する作曲家。
メヌエット、サラバンドなどの舞曲を並べて構成するのが
当時の組曲の伝統であったが、ラモーが教会オルガニストとして
過ごした前半生に書いた3つのクラヴサン組曲集は、
そうしたこの時代の代表的な洋式に従いつつも、
表題の付いた曲を多く含む、比較的自由なスタイルで編まれている。


のちにオペラの世界で名をなすことになるラモーらしい、
ドラマチィックで色彩感豊かな世界がそこにある。
この<エジプトの女>は、ラモーが出版した3作めの組曲集
「新クラヴサン曲集」の最後を飾る曲である。
装飾音(音を飾るために、音を揺らしたり付け加えたりすること)を
ふんだんにまとった華やかな早い音型が右手と左手に繰り返し現れ、
エジプトの女たちのにぎやかなおしゃべりの様子が見えてくるかのようである。

ピアノの名曲を聴こう 月の光

ピアノの名曲を聴こう

ドビュッシー
月の光
ほのかな月の光を描いた詩情あふれる名作
<月の光>は4曲からなる<ベルガマスク組曲>
の第3曲にあたる曲。
ドビュッシーのピアノ作品中、もっとも有名な1曲で、
ほのかな月の光のもとでの優しさ穏やかな時の流れが感じられる、
詩的な曲調のピアノの名作である。
<月の光>というタイトル、そして「ベルガマスク」という組曲のタイトル、
それらはともに同時代フランスの詩人ボール・ヴェルレーヌの
詩からの引用であるとされている。


ヴェルレーヌの「月の光」というと、
ドビュッシーより17歳年長の先輩作曲家
ガブリエル・フォーレの歌曲も有名であるが、
ドビュッシーもこの詩人の作品は
たいへんに好み、その詩にももとづく歌曲も数多く作曲している。
暗い部屋に月の光がさっと差し込むような美しい旋律に続き、
孤独な夜の切ない感情が
徐々に高まっていき、一度静まってから、
月光のきらきらと輝くような細かい音型の
伴奏にのって奏されるロマンチィックな旋律のあと、
冒頭の旋律が回想されて曲を閉じる

ピアノの名曲を聴こう

ピアノの名曲を聴こう

シューマン/リスト
献呈
華麗に編曲された愛の贈りもの

シューマンが結婚式の前日、妻となるクララに贈ったのが
26曲からなる歌曲集<ミルテの花>。
「品よくデザインされた装飾をほどこして、装丁してください」
という出版者へ書き送ったシューマンの手紙も残されており、
愛の贈りものへの思い入れの深さが感じられる。
曲集はシューマンの「歌曲の年」とされる
1840年の1月から4月にかけて作曲された。


リュッケルトの詩による<献呈>はそのなかの第1曲にあたり、
「君はわが心、わが魂」
という愛の宣言が高らかに歌い上げられる。
リスト編曲によるピアノ独奏版は、
キラキラと光り輝くような衣装をまとい、
いちだんと装飾性を増しながら、華麗な力強さを感じさせる。
抑えきれない心のたかぶりを描写するかのような前奏にはじまり、
手探りで愛を確認するようにじっくりと歌曲のメロディが歌われていく。
穏やかな中間の部分を経て、最初のメロディが確信とともに響きわたる。

ピアニストとは?2

機械を使いこなす腕が必要
ピアノという楽器は、ある意味で人間から
いちばん遠いところにある機械です。
たとえば歌手なら、自分の身体を使って歌うし、
ヴァイオリンでもフルートでも
身体にとても近いところで演奏します。
しかし、ピアニストは、ひとりでは容易に動かせないような
重くて大きな楽器を相手にして演奏します。
しかも、そのピアノは、ネコが鍵盤の上に乗っても音が出るような、
完成されたメカニズム
(鍵盤からハンマーまでの一体化された部分)をもっています。
そのような楽器で音楽をするということは、
ほかの楽器とは違った難しさがあると思います。


ピアニストは“肉体労働者”
人はそれぞれ体格が違い、手の大きさも違います。
ですから、ピアニストはそれぞれの身体に合わせて、
自分なりの弾き方を見つけていかなければなりません。
演奏会でご覧になるとわかるように手の形、椅子の高さなどは、
十人十色で、弾き方もさまざまです(たとえば、ホロヴィッツは
指を伸ばして弾く、グレン・グールドは極端に椅子が低い、などなど)。
その意味でも、ピアニストは常に大きな楽器を相手にして、
それをなんとか駆使しようと努力する一種の肉体労働者でもあるのです。

ピアニストとは?1

ピアニストとは?

お客様に音楽を届ける仕事
ピアニストとは、ピアノという楽器を使って素晴らしい作品を
お客様の前で演奏する職業です。
ソロのリサイタルをはじめ、オーケストラと協奏曲を演奏するもの、
室内楽のメンバーとして参加するもの、
さまざまな形のコンサートがあります。
演奏する作品はいろいろな時代のものですが、
基本的に、作曲家が書いた楽譜というものが存在しています。
楽譜を読み、その音楽を自分(ピアニスト)という
フィルターを通して、表現していく。
そこに集う聴衆へ、現在に生きている自分が何をどう表現するか。
そういったことを追及し、実現していく。


けっして、作曲家が考えたことや意図したことを、
そのまま再現しようとするわけではありません。
作曲家の意図は謙虚に探りますが、演奏家は作曲家にはなれないわけです。
楽譜という一種の聖書のような、暗号のようなものを自分なりに読み、
解釈して、生きた音として立ち上らせる。
それがピアニストの仕事です。
そのために、自分が作り出したい音を充分に表現するための
テクニックが不可欠になり、そこにはもちろん感性が
結びついていなくてはなりません。
またコンサートで弾く場合には、演奏者とお客様との
コミュニケーションも大切です。

繊細な響きを求めて2

繊細な響きを求めて

ハンマーの改良
ちょうどこの時期のパリで、プレイエル、エラールと
並んで人気だったのが、ドイツ出身の製作者アンリ・パープのピアノである。
現在では、ほとんど忘れ去られているパープの数々の発明のなかで、
彼が弾力性のあるフェルトを初めてハンマーに使用したことは見逃せない。
それまでの羊や鹿の皮(ウィーン)、綿や羊毛(イギリス)で
覆ったハンマーと比べて、音色に硬さがなくなり、
現在われわれが耳にしているピアノの音により近いものとなった。


リストの影響
ところで、先のショパンとは対照的に、大ホールで大勢の聴衆に向かって
演奏することを好んだのがリストである。
彼は、演奏家としてエラールやブロードウッドを弾いていたが、
晩年になると、さらに次世代のピアノにも触れており、
ベヒシュタイン(1880年製、ベルリン)や
スタンウェイ(1882年製、ニューヨーク)も所有していた。
カール・ベヒシュタインは、1856年、リストのリサイタルを聴いて驚愕し、
このピアニストの力に耐えうる楽器を作ろうと決心したのだった。
しかしこれは、ベヒシュタインに限ったことではなく、リストの演奏は、
19世紀後半のドイツの製作者たちに大きな影響を与えたのである。

繊細な響きを求めて1

繊細な響きを求めて

より力強い響きを求めたイギリスに対し、
フランスでは、繊細なニュアンス、
柔らかい音色、連打の敏捷性といった、
ピアノの新たな表現性が探られた。
そして19世紀後半になると、
現代のピアノにより近い楽器が生む出される。

ショパンの時代
パリ時代(1831~49)のショパンが愛用していたのが、
フランスのピアノ、プレイエルとエラールだった。
プレイエル社は、カルクブレンナーやショパンなど
当時人気のピアニストたちの意見を採り入れながら、
羽のように柔らかいタッチ、ピアニッシモの繊細な表現にこだわり、
独自のピアノを生み出した。
これは、それまでのピアノ製作の歴史がより大きな音量を
求めてきたのとは、大いに異なっている。


したがってプレイエルの楽器は、決して大きくは響かなかったが、
少人数を前に演奏するのを好んだショパンにとっては、
その豊かなニュアンスゆえに、
エラールの改良が進んでも手放せない魅力があったようだ。
一方そのライヴァル会社エラールは、
1822年にダブル・エスケープメントという
近代ピアノ・アクションの原型を発明する。
これは、反復レバーを1本加えることで、
落下途中のハンマーが再度打弦するのを
可能にした装置であり、これによってトリルといった
装飾音や同音反復が容易に演奏できるようになった。
たとえばショパンの<子犬のワルツ>のような作品は、
こうしたエラールのピアノなしには生み出されなかったかもしれない。

2012年5月30日水曜日

19世紀のピアノの改良2

19世紀のピアノの改良

ブロードウッド社のピアノ
イギリスでグランド・ピアノの開発を推し進めたのが、
ブロードウッド社(創始者:ジョン・ブロードウッド)である。
1781年頃よりグランド・ピアノの生産を始めると、
演奏家(クレメンティほか)や音響学者の意見も採り入れながら、
音域の拡大、音量の増大を目指した。
A.バッカースが開発した「イギリス式アクション」と呼ばれる
「突き上げ式」アクションを改良し、よりパワフルなピアノを生産。
1820年頃には、グランド・ピアノに初めて鉄製の枠組みを採り入れる。
ベートーヴェンは、1817年製のブロードウッドの
ピアノを製造元から寄贈されている。


エラール社のピアノ
音量の大きさという点でベートーヴェンを大いに満足させたのが、
フランスのエラール社のピアノである
(創業1780年、エラール兄弟:セバスティアン、ジャン=バティスト)。
1803年、ベートーヴェンに贈られたエラール社のピアノは、
音域が5度増えた上、弦の数もそれまでのウィーン式の2本に
対し3本に強化され、低音や和音がこれまでになく豊かに響いた。
さらにベートーヴェンにとって、
これは、足ペダルを備えた最初のピアノだった。
当時彼が作曲したピアノ・ソナタ、たとえば<ヴァルトシュタイン>には、
このエラールの改良を積極的に音楽表現に採り入れた跡がみてとれる。

19世紀のピアノの改良1

19世紀のピアノの改良

18世紀後半から19世紀前半にかけて、ピアノは、
ウィーンで技術的深まりをみせると同時に、
産業革命を経たイギリスに、次いでフランスに広まっていく。

ベートーヴェンとその周辺
ウィーンのフォルテピアノ製作は、1790年前後に急成長し、
シュタインの考案した「ウィーン式アクション」が
またたく間に普及した。
19世紀初頭にウィーンで活躍した製作者としては、
シュタインの娘ナネッテ・シュトライヒャーがいる。
生涯彼女と親しかったベートーヴェンは彼女に、
ウィーン独特の繊細な音色を守りつつ、
もっと音量が大きく、「強打に耐えうる」楽器への改良を求めた。
数年後、改良された楽器を目の当たりにしたベートーヴェンは、
中断していたピアノ・ソナタの作曲を再開し、
ピアノ協奏曲5番<皇帝>もこの楽器から生み出された。


スクエア・ピアノ
一方ドイツでは、七年戦争(1756~63)を避けて、
優れた楽器製作者たちがイギリスへ移住し、その技術を伝えた。
その代表格がヨハンネス・ツンペ(英名:ジョン・ズンペ)である。
ツンペはまた、小型で安価な楽器、
スクエア・ピアノの製作ラインも定着させた。
これは、単純な構造ながら、クラヴィコードよりも音量が大きく、
音楽表現の点でもニュアンスに富んでいたため、
18世紀末のイギリス社会で急速に普及していた。

ウィーン式ピアノの完成

「ウィーン式」ピアノの完成

ウィーンのフォルテピアノの製作者たちは、
シュタインのアクションを受け継ぎ、
彼ら独特の柔らかく軽やかな音色を生み出していく。

シュタインのフォルテピアノ
1777年、母親とマンハイム、パリへの旅の途上のモーツァルトが、
アウクスブルグの鍵盤楽器製作者
ヨハン・アンドレアス・シュタインの工房を訪ねた。
彼はその楽器の印象を興奮した調子で父親に書き送っているが、
とりわけ自作の二長調ソナタ K.284が、
「比較にならないほどよく響いた」らしい。
この頃すでにシュタインは、ハンマーを軽量化するだけでなく、
中間レバーなしで鍵盤とハンマーを直接に接触させる
「跳ね上げ式」アクションを考えだしており、
モーツァルトが演奏したフォルテピアノは、
以前ほど強く鍵を押す必要のない楽器だったのである。
その後シュタインは、ハンマーの向きを逆にし、
いわゆる「ウィーン式アクション」を完成させる。
このアクション方式が、ウィーンの製作者たちに
引き継がれていったのである。


ヴァルターのフォルテピアノ
一方、ウィーン時代のモーツァルトが特に気に入っていたのが、
アントン・ヴァルターのフォルテピアノである。
ヴァルターは1790年に
「宮廷付きオルガン製作兼楽器製作家」の称号を得て、
ウィーンのもっとも優れた製作者としての地位を確立する。
彼は、真鍮製のカプセル(ハンマーの回転軸部)を使用したり、
バック・チェック機構(ハンマーの2度打ちを防止する装置)を
改良したりと、シュタインの楽器をさらに重厚なものとし、
ヴィルトゥオーソ的な表現をフォルテピアノでも可能にした。
なお、軽やかなシュタインと重厚なヴァルターの
ちょうど中間に位置するフェルディナント・ホフマン製作の楽器も、
ウィーンならではのその優しく柔らかな音色ゆえに、
この時代のフォルテピアノとして無視できない存在である。

モダンピアノへの道

モダン・ピアノへの道

クリストフォリとジルバーマンのピアノがどちらかといえば、
チェンバロとクラヴィコードの中間に位置する楽器だったのに対し、
ジルバーマンの弟子の世代がオーストリアやイギリスで活躍する
18世紀後半には、モダン・ピアノにより近づいた
フォルテピアノの製作が盛んとなる。
だが、それでもまだ音域は狭く、ボディも華奢で、
フォルテピアノの改良は19世紀に入ってもなお続いた。

フォルテピアノ
フォルテピアノは、モダン・ピアノのような頑強な鉄骨枠ではなく、
木のボディをもち、その結果、重量もずっと軽い。
モダン・ピアノが一般に88鍵なのに対して、60~70鍵程度、
5オクターヴ程度の音域に留まっているが、ハンマーが小さい分
タッチが軽く、音色がまろやかである。
フォルテピアノの特徴は、まさにその名称の示す通り、
フォルテ(強い音)とピアノ(弱い音)が自在に出せるところにある。
この点からみてもこの楽器は、C.P.E.バッハやハイドン、
そしてモーツァルトといった作曲家にとって、
チェンバロに代わる最新の鍵盤楽器だった。
彼らはしだいに、フォルテピアノを意識した作品を作曲するようになる。

ピアノの発明

ピアノの発明

現代のピアノの原型は、イタリアのクリストフォリによって
生み出されたといわれている。
その楽器は当時、「ピアノとフォルテの出るチェンバロ」と呼ばれていた。

クリストフォリ
楽器製作であり、メディチ家所蔵の楽器を修復する
楽器修復家でもあったバルトロメオ・クリストフォリ。
1700年に編纂されたメディチ家の楽器目録に、
クリストフォリが新しく発明した楽器についての記述があり、
ピアノの原型となる楽器は、
1690年代の終わりには製作されていたと推測される。


ジルバーマン
しかしクリストフォリのこの画期的な発明は、
彼の住むイタリアではさほど注目されなかった。
当時のイタリアでは、ピアノ(チェンバロ)は
声楽の伴奏楽器とみなされており、
まだ独奏楽器としての地位を与えられていなかったのである。
そんな中、クリストフォリの名は、ドイツでも知られるところとなり、
彼の技術を手本として製作を試みる楽器製作者が現れる。
ゴットフリート・ジルバーマンである。
ジルバーマン家は、主にオルガン製作者として活躍していた一族で、
そのひとりゴットフリートも、すでにクラヴィコードや
チェンバル・ダムールといった楽器を手がけていた。
ベルリンに招聘されたイタリア人歌手たちが、
おそらくクリストフォリの楽器をドイツに運び、ゴットフリートは、
評判の楽器に実際に触れる機会を得たのだろう。
彼は。クリストフォリのアクションをそのまま継承する一方、
手動式ではあったが、ペダルの機能を追加するなど、
独自の試みも行っている。
その製作技術の高さは、時のフリードリヒ大王も認め、
王はたくさんの楽器をジルバーマンに注文したという。
またすでに彼と交流のあったJ.S.バッハは、ジルバーマンの楽器を試奏し、
「高音域が弱い」といった問題点を指摘したが、
改良が重ねられた楽器には、大きな讃辞を贈ったとも伝えられている。
ゴットフリート・ジルバーマンは、ドイツにおける
ピアノ製作史の1ページを開いたのである。

クラヴィコード

クラヴィコード
現在、にわかに注目を集めるクラヴィコード。
この楽器は、18世紀の作曲家たちにとって
もっとも身近な鍵盤楽器だった。

甘美で繊細な音色
「きわめて洗練された趣味の演奏をするとき、
クラヴィコードは、一番の支えになってくれます」(C.P.E.バッハ)、
「甘美で、魂のどんな息づかいにも敏感なクラヴィコード」(ショーバント)。
クラヴィコードは、フォルテピアノの台頭とともにしだいに忘れられていったが、
バッハ・ファミリーも、ヘンデルも、
モーツァルト父子も18世紀の音楽家たちの誰もが
この楽器を愛し、もっとも身近な鍵盤楽器として日々演奏していた。


音の陰影を表現できる楽器
クラヴィコードは、可動式の駒をもつ中世の単弦楽器、
モノコード(一弦琴)を発展させた楽器である。
とてもシンプルな構造で、鍵盤を押すと、その先に付けられた
タンジェントと呼ばれる金属ピンが弦に触れ、音が発せられる。
ただその音は、驚くほど細く、現代の演奏会場では
ほとんど聞き取ることができない。
しかしその反面、鍵盤を押す指に弦の感触が伝わるので、
力を加減してヴィブラートをかけたり、強弱の変化をつけたりできる。
音の陰影を表現するのにもっとも適した楽器といえるだろう。
自らが音楽を楽しむために、あるいはこの時代の音楽を実感するために、
最近クラヴィコードの愛好者が、ピアニストの間でも増えているようである。

チェンバロ

チェンバロ

日本では「チェンバロ」という呼び方が一般的だが、
これはイタリア語であり、英語では「ハープシコード」、
フランス語では「クラヴサン」と呼ばれている。
音の出るしくみはピアノとは異なるが、ピアノが登場する以前、
17~18世紀のヨーロッパで広く使われた鍵盤楽器、
それがチェンバロだった。


一段鍵盤と二段鍵盤
チェンバロは、弦を叩くのではなく、引っ掻いて音を出す。
もっとも古い記録としては、14世紀の史料に
「クラヴィチェンバルム」の名称が記されている。
この楽器は、16世紀初頭のイタリアでその原型がほぼ確立され、
その後アルプスを越えると、さまざまな改良が加えられた。
ボディも薄く一段鍵盤が主流だったイタリア製に対し、フランドル、
フランスでは、二段鍵盤の楽器が生み出された。
この結果、音域が拡張され、フォルテとピアノの音量を
使い分けることも可能となる。
また弦をはじく爪の改良や、音色を変えるレジスターの発明によって、
音色が多様になっていった。
こうした改良を経て、生産地によってそれぞれ固有の特徴が生まれた。
たとえば、ボディの重厚なジャーマン・タイプは、渋みのある音色だが、
フレンチ・タイプは、柔らかく絹のような音を奏でる。
クープランやラモーが作曲したフランス・クラヴサンの美しい諸作品は、
こうした楽器の隆盛とともに誕生したのである。

ピアノのルーツは?

ピアノのルーツは?

「ピアノ」と呼ばれる楽器が誕生したのは、
1700年頃だが、そのルーツは、
15世紀にまでさかのぼることができる。

「弦を叩く」楽器
ピアノは、「弦を叩く」ことで音を出す打弦楽器である。
この原理からそのルーツをたどると、箱型の胴に複数の弦を張り、
2本のばちで叩く「ダルシマー」という楽器に行き着く。
ダルシマー(原義は「甘い響き」)は、
現在でも民族音楽の楽器として各地に残っており、
代表的なものとしては、「ダルシマー」(英語圏)、
「サントゥール」(トルコ、イラン)、
「揚琴」(中国)などがあげられる。
われわれ日本人になじみがあるのは、
ハンガリーやロマ(ジプシー)の民族音楽で
使われている「ツィンバロン」だろう。


「弦をはじく」楽器
一方、同じ形態ながら弦を爪や指ではじいて演奏する楽器は、
「プサルテリウム」(プサロ=引っ掻く(ギリシア語))と呼ばれる。
おおまかに言うと、ピアノは「ダルシマー」が、
チェンバロは「プサルテリウム」が祖先ということになるだろう。

ブランドピアノファツィオリ

ブランドピアノ ファツィオリ

世界が注目する新しいピアノ・ブランド

イタリア代表の新ブランド

今、チッコリーニやブレンデルといった
著名なピアニストたちから注目されている
新ブランド、それがイタリアのファツィオリだ。
1981年に創業したばかりの新興メーカーが、
伝統を重んずるピアノ製作の世界で
これほど話題にされるのは、稀有なことである。
創業者のパオロ・ファツィオリは、
イタリアのピアニスト兼エンジニア。
一族は代々家具メーカーだった。
ピアノ工場は、ヴェネツィアの北60km、
フィエンメ渓谷にほど近いサチーレにあり、
渓谷の良質な赤トウヒが、響板に使用されている。


特徴
現在、ファツィオリ社が製造しているのは、
6つのタイプのグランド・ピアノだけである。
すべてが手作業で行われ、生活生産台数も約120台程度とかなり少ない。
そのなかで人気と話題をさらっているのが、
現時点でもっとも大きなコンサート・グランド・ピアノと
いわれているモデル F308。
これは、特に大きなコンサート・ホールのために
設計されたというだけでなく、
音色を変えることなくピアニッシモが弾けるようにと
第4のペダルが取り付けられている点でも画期的である。
その音質は明るくエレガントで、ダイナミクスの幅があり、
すべての音域で同質の音色が実現されていると評判。

ブランドピアノペトロフ

ブランドピアノ ペトロフ

現在も愛され続けている東欧の老舗ブランド

チェコの老舗メーカー
ピアノ製作の伝統が古くからあるウィーンや
東ドイツに近いこともあって、由緒あるピアノ・ブランドが、
東欧で生き続けた。
チェコを代表するピアノ・メーカー、ペトロフである。
創業は1864年。ウィーンで修業を積んだアントニン・ペトロフが、
彼の故郷フラデツ・クラーロヴェ(ボヘミア北東部)で
グランド・ピアノを製作したのが始まりだった。


ウィーンの技術を守りながら、近代化も積極的に推し進めたペトロフは、
1899年に「オーストリア=ハンガリー帝国宮廷御用達のピアノ製作者」の
称号を取得する。
20世紀前半には、ヨーロッパを代表するピアノ・メーカーのひとつとして、
日本や中国、南米にまで輸出した。
戦後は、共産党の政権下で国営企業として生産を続けたが、
1991年にふたたび民営化。
現在は、五代目のペトロフが経営を握り、
従業員1000人を抱える大ピアノ・メーカーとなっている。

プレイエルの特徴

プレイエルの特徴

19世紀前半、ピアノの詩人ショパンと
カミーユ・プレイエルの出会いは、
プレイエル・ピアノの響きに繊細さをもたらした。
その伝統は、フランス随一のピアノ・メーカーとなった
今でも伝えられている。

プレイエルの最大の魅力は、軽いタッチと歌うように伸びやかな音にある。
それは、響板と響棒の特殊な構造、雑音を抑える「鼠鉄鋳」といった
プレイエル伝統の技術に支えられている。


21世紀の新たなコンサート・グランドとして発表されたモデルP-280は、
ドイツの老舗メーカーシュタイングレーバー&ゼーネ社の優れた技術者たちと
フランスの歴史ピアノ修復家A.ルディエの協力を得て製作された。
これは、プレイエルが19世紀末に製作した最良のピアノの基本が活かしつつ、
最新の技術研究の成果が盛り込まれた逸品である。
色彩感あふれる音色、持続する音、
そして19世紀末のプレイエル・ピアノならではの柔らかな響き、
「2世紀にわたる伝統と知識を1台のピアノに集約した」
新しいプレイエルの顔となっている。

2012年5月29日火曜日

フランスのピアノプレイエル

フランスのピアノ プレイエル

フランス随一のピアノ・メーカー

1807年にピアノ製作を始めた創業者のイニャース・プレイエルは、
オーストリア出身で、ハイドンの教えも受けた作曲家。
彼の息子のカミーユは、英国女王の御前演奏をするほどの
優れたピアニストだった。
創業者が音楽家だった点は、他のヒピアノ製作会社と異なっており、
プレイエル・ピアノの原点ともいえる。
カミーユは、演奏家としてイギリスに滞在中も、
ブロートウッドらの優れたピアノ製作者を学んではいたが、
やはり彼にとって決定的だったのは、パリでショパンとの出会いだった。


ピアノという楽器そのものの表現性を追及した彼らの交流から、
陰影豊かなピアノが生み出されたのである。
ライヴァルのエラールとしのぎを削っていた1870年代には、
生産台数が年間2500台を超えていたといわれるが、
19世紀は経営破綻と合併を繰り返す。
しかし、1990年代の末に、フランス人がピアノ製作部門を、
次いでサル・プレイエル(1927年にオープンした音楽ホール)の
経営権を握り、2007年には閉鎖していたパリ郊外の
サン・ドゥニ工場の生産が再開された。

ベヒシュタインとブリュートナーの特徴

ベヒシュタインとブリュートナーの特徴

ベヒシュタインは、その透明な響き、高貴な音色は、
「ピアノのストラディヴァリウス」と
呼ばれたこともあるベヒシュタイン。
それに対して、チャイコフスキーやフルトヴェングラーに愛された
ブリュートナーはロマンティックな響きをもっている。

ベヒシュタインの特徴
フル・コンサート・ピアノD 280、
最高のアップライトと称されるコンサート8から、
教育用のアカデミー・シリーズまで多数のモデルがある。
固有の除響板、長期間シーズニングされる音響的に
優れた高品質な鉄骨、特殊な弦設計等の技術が、
透明感ある響き、色彩感、安定した構造を支えている。

ブリュートナーの特徴
共鳴弦を1本加えることで、音の響きを豊かにする
「アリコート・スケーリング」
(1872年特許取得、現在は高音部にのみ採用)や
響板の特殊な加工技術などが、ブリュートナー特有の音を生み出している。
代表的なモデルに、Model 1のコンサート・グランド、
創業者の名前をとったユールウス・ブリュートナーなどがある。

ドイツのピアノ ブリュートナー

ドイツのピアノ ブリュートナー

西ドイツのベヒシュタインに対して、
東ドイツを代表するメーカーがブリュートナーである。
1853年、ユーリウス・ブリュートナーが、
音楽の街、ライプツッヒで創業し、
現在も彼の子孫が経営を続けている。
これまでに生産された台数は15万台と決して多くはないが、
ブリュートナーが取得した数々の特許から生み出される芳醇な響きには、
ピアニストだけでなく、歌曲の歌い手たち、
室内楽の演奏者たちの間でもファンが多い。


その他ドイツの名器
2社のほかにも、ドイツには、今なお、
バイロイトのシュタイングレーバー&ゼーネ(1852年創業)や
ブラウンシュヴァイクのグロトリアン(1835年創業)といった、
高品質の生産を続ける老舗メーカーが残っている。
公社はスタンウェイとの関係も深く、
クララ・シューマンが愛用したことでも知られる。

ドイツのピアノ ベヒシュタイン

ドイツのピアノ ベヒシュタイン

フランスで最新の技術を学び、
1853年にベルリンで創業したカール・ベヒシュタインは、
1856年、リストの力強い演奏に衝撃を受ける。
「この演奏に耐えうるピアノを製作したい。」
こうした思いから出来上がった楽器は、
リスト本人やH.v.ビューローから高い評価を得た。
その後も、精度の高い生産技術を保ち続け、
英国のヴィクトリア女王をはじめとしてヨーロッパ中の宮廷で愛用される。
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、その人気は頂点に達した。


1901年、ロンドンに建設されたベヒシュタイン・ホールの存在は、
その隆盛ぶりを物語っている。
20世紀に入ると、戦争による工場の破壊、営業不振など、
ベヒシュタインにも低迷期が続き、
60年代にはアメリカ資本の投入を促した。
しかし20世紀末、ふたたびドイツ人が経営者となり、
国内のピアノ・メーカーを傘下に収めると、
国内の拠点を増加させていった。
近年は、アメリカ、ロシア、中国へも進出し、
経営のグローバル化をはかっている。

日本のピアノ カワイ

日本のピアノ カワイ

「日本の楽器王」河合小市が切り開いた道

創業者の河合小市は、日本楽器(後のヤマハ)に入社し、
アクションの製作に成功するなど、寅楠や直吉から
「天才職人」と称された。
しかし、寅楠がこの世を去ると、
職人気質の小市は、日本楽器を辞職。
1927年には、「河合楽器研究所」を浜松市に設立した。
1928年にはアップライト第1号「昭和型」を、
翌年にはグランド・ピアノ「平台1号」を完成させ、
すぐさま販売を軌道に乗せている。
1950年代より、新しいグランド・ピアノを次々と発表。


1970年には、アクションなどに、
亡き河合小市の基本設計をそのままに踏襲した
「カワイ・グランドKGシリーズ」6種を完成させ、
そのマイルドな音色は「カワイ・トーン」として親しまれていた。
1980年には、グランド・ピアノ専門の東洋工場を建設し、
翌81年にはフル・コンサート・ピアノ「EX」を発表。
このピアノは、1985年、ショパン国際ピアノ・コンクールで
公式ピアノに認定され、2000年には、
予選からEXを選んだI.フリッターが第2位に入賞したことで話題を呼んだ。

ヤマハの特徴

ヤマハの特徴

多くのピアニストが賞賛の言葉を贈る
「NewCFⅢシリーズ」は、
ヤマハのピアノ作り100年の集大成である。
豊かでブリリアントな響きと、
演奏家の要求に応える自在な演奏性能。
その音作りへのこだわりは、響板、響棒、巻線、駒、
ハンマー、アクションなどの形状や材料のあらゆる細部で、
見直しが繰り返されてきた。
またすべての部品が自社生産で、
響板塗料にいたるまで独自に開発が行われている。


サイレントアンサンブルピアノ特注モデル
時間を気にせず演奏が楽しめる。
消音機能と自動演奏に加え、
多彩な楽器音とのアンサンブル演奏も可能。

SU7
ヤマハ・アップライト・ピアノの最高峰モデル。
最高品質の音にこだわり、
CFⅢSと同等のハンマーフェルトが採用されている。

世界的ピアノ・コンクールの公式ピアノ

世界的ピアノ・コンクールの公式ピアノ

同社は20世紀初頭に工場の数を増やし、
事業を拡大させるとともに、ベヒシュタインのシュレーゲルなど
ドイツから技術者を招聘し、技術の吸収に努めた。
第2次大戦後は、1947年からピアノの生産を再開し、
1950年に最初のフル・コンサート・ピアノを完成させる。
1957年、シカゴの楽器ショーに出品。
以後、輸出台数も増加し、
1962年にはピアノの生産台数を世界トップとした。
第4代社長川上源一の時代に、
生産ラインの合理化と量産システムが推し進められた。
同時に、スタインウェイに劣らない演奏会用の
コンサート・グランドを目指し、
1967年、「CFシリーズ」を世に送り出した。


ヴィルヘルム・ケンプによる披露演奏会が開かれ、
このピアノは高い評価を受ける。
その後もこのシリーズは改良を重ね、1991年に「CFⅢS」、
96年と2000年に「NewCFⅢS」が発表される。
これらのモデルは、ショパン国際ピアノ・コンクールを
はじめとして著名なコンクールや
音楽祭において、公式ピアノとして採用されるに至っている。
なお1987年に、創業100年を記念して、
社名を「ヤマハ株式会社」に変更した。

日本のピアノヤマハ

日本のピアノ ヤマハ

世界に認められた日本ブランド
日本の浜松で誕生した、ヤマハとカワイ。
この2社は世界をリードするピアノ・メーカーへと成長していく。

それまで時間や医療機器などの修理をしていた山葉寅楠の楽器作りは、
たまたま依頼された、浜松のとある小学校のオルガン修理から始まる。
1887年には国産の足踏みオルガンの製作に成功し、
音楽取調掛(東京芸術大学の前身)の井沢修二に認められる。
89年に、日本風琴製作所を設立するが、
ライヴァル会社の西川オルガン製作所
(西川虎吉設立)が、舶来の新しい楽器
「洋琴」(現在のピアノ)を製作に乗り出した。
1897年には、日本音器製造株式会社を設立する。


寅楠がピアノ製作を始めた時期は、ちょうどイギリス、
フランスのピアノ製作が衰退をみせ始め、
その座をアメリカやドイツのメーカーに譲った時期と重なる。
寅楠は1900年渡米し、5ヵ月にわたって、
ピアノの材料や部品を扱う工場から
組み立て工場まで100か所以上を精力的に見てまわった。
さまざまな部品を買い付けて帰国すると、
その年のうちにアップライトを、
1902年にはグランド・ピアノを完成させている。
だが、同じ時期に製作された「カメン・モデル」こそ、
響板も部品もすべてヤマハで作った最初のピアノであり、
国産ピアノ第1号ということになる。

ベーゼンドルファーの特徴

ベーゼンドルファーの特徴

ベーゼンドルファーは、何よりも「響き」を重視し、
「楽器全体が鳴る」構造を意識して製作されている。
響板と側板は同じ材質でできており、
側板は、細かな切り込みを入れた木材が、
手作業によって翼(フリューゲル)の形へと曲げられていく。
ベーゼンドルファーは、弱音が美しく、
どこか潤いがあり、暖かい。
また、モデル290「インペリアル」は、
鍵盤の数が通常よりも多いことで有名で、
ベーゼンドルファーの代名詞的存在となっている。
最低音がさらに下のC音まで下げられ、
88鍵ではなく97鍵備えている。


リスト・モデル
リストがベーゼンドルファーのピアノを使用した演奏会が
成功を収めたことを機に、ベーゼンドルファーの名は広く知れわたった。

ベーゼンドルファー創業180周年記念モデル
世界で50台の限定モデル。
古典的でエレガントな輪郭線や美しい鍵盤蓋が魅力。

デザイン・モデル エッジとポルシェ
ベーゼンドルファーと著名なデザイン社とのコラボレーションにより、
新しいフォルトのピアノも発表されている。

ベーゼンドルファー

ベーゼンドルファー

輝かしいウィーンの響き
音楽の都ウィーンで生まれ、「ウィンナー・トーン」と
呼ばれる響きをもつベーゼンドルファー。
その歴史は、徹底した手作業で貫かれ、
リストをはじめとするピアニストたちの評価によって支えられてきた。


創業者のイグナツ・ベーゼンドルファーは、
ウィーンの家具職人の家に生まれ、
オルガン職人を経て、ピアノ製作の道へと入った。
彼がピアノ製造業者として独立するのは1828年。
前年にはベートーヴェンが、同年にはシューベルトが没している。
ウィーンで過ごしたこうした音楽家たちの
名声が彼らの死後徐々に高まり、
「音楽の都ウィーン」という認識が確立していくのと平行して、
ベーゼンドルファーは発展をみせたのだった。
1830年には、早くもオーストリア皇帝より
「宮廷および会議所ご用達のピアノ製造者」の称号を得、
1839年と45年のウィーン博覧会でも、高い評価を受けた。
だが何といっても、ベーゼンドルファーの名を
一躍ヨーロッパ中に知らしめたのは、
当時の人気のピアニスト、リストだった。

ベーゼンドルファー手作業の精神

ベーゼンドルファー手作業の精神
1859年にイグナツが亡くなると、
息子のルートヴィッヒがその後を引き継ぐ。
翌年、新しい工場に移り、早速新しいアクションの特許を取得、
1870年には、さらに広い工場へと移転している。
1872年、リヒテンシュタイン皇太子の乗馬学校を、
その音響のよさからコンサート・ホールに改築して、
ベーゼンドルファー・ホールとし、
ハンス・フォン・ビューローのリサイタルで柿落としが行われた。
このホールは、1913年まで、ウィーンで
もっとも美しい室内楽ホールとして知られ、
アントン・ルビンシテイン、リスト、ブラームスなど
名だたる音楽家がここでコンサートを開いた。


そしてそれはまた、ベーゼンドルファーのピアノを
幅広く知らしめる機会ともなった。
1900年以降、ルートヴィッヒは、
反復音を容易にするイギリス式アクションや
扇状交叉弦を採り入れるなど、改良を推し進める。
1909年には、信頼する友人に事業を売却。
両大戦の被災や生産台数の落ち込みを経て、
第2次大戦後はアメリカの企業の手に渡った。
その後、オーストリアの銀行グループの傘下に入り、
2008年より、日本ヤマハの傘下となる。

スタインウェイ&サンズの特徴

スタインウェイ&サンズ

日本の音楽界でも多数使用されるコンサート・グランド

スタインウェイ&サンズ社は、
現在、ハンブルグとニューヨークにある工場でピアノを生産している。
日本の多くのコンサート・ホールで使用されているのはハンブルグ製。
一般に、ハンブルグ製とニューヨーク製には、音色やタッチに
それぞれ特徴があるといわれている。


特長
創業以来、100を超える特許を取得している。
数ある特徴のなかでも、「フレームが鳴る」という
スタインウェイならではの感覚が得られる理由として、
中央部分9mmから縁周り6mmになるよう仕上げられた響板、
15~18枚の一体成形された薄い板を重ねて、
それに強い圧力をかけて曲げられた側板、
縦方向に木目をそろえ、幾重にも薄板が貼り合わされた駒、
指のタッチを正確に伝えるため木材の芯を充填したアクション、
打弦されない弦が共鳴するような設計された
「デュプレックス・スケール」といった工夫があげられる。

2012年5月25日金曜日

スタインウェイ&サンズ

スタインウェイ&サンズ

コンサート・グランド・ピアノの王者
スタインウェイとベーゼンドルファーの両横綱を筆頭に、
現在、製作・販売されているピアノ・ブランドの数々。
まずは、世界中のコンサート・ホールに設置され、
ピアニストたちに愛されている王者スタインウェイ。

スタインウェイの歴史は、1836年、それまでオルガン製作者だった
ハインリッヒ・エンゲルハルト・シュタインヴェークが、
北ドイツのゼーゼンにある自宅の台所で1台のグランド・ピアノを
製作したところから始まる。


ところが、1848年の革命のあおりを受けて、
1850年にシュタインヴェークー家は、
長男のテオドールだけを残し、ニューヨークと移住する。

1853年には、名前を英語読みにして「スタインウェイ」と名乗り、
4人の息子たちとともに「スタインウェイ&サンズ」を設立した。

すでにアメリカでは、18世紀末にヨーロッパから多くの楽器製作者たちは
移住していたこともあって、小型ピアノやスクエア・ピアノが人気を博していた。